戦国時代

武田信玄は城を持たなかった⁈合理的な男は考えることが違うねぇ

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戦国時代での強い武将にも沢山いますが、甲斐の武田信玄と言えば誰もが「あぁ~、風林火山の武田信玄ね」とすぐ分かるかも知れないですね。

知名度高いのは織田信長・徳川家康クラス。

でもこの信玄は自分の城を持たなかった!とも言われているのです!

城と戦国武将はMacのセットみたいなもの。本当なんでしょうか⁈

今日は、その真相に迫ってみるでござる!いざ出陣~。

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武田信玄は城を持たなかった⁈

考察1~甲斐国と言う土地~

甲斐国は今の山梨県に当たります。そして山梨県では信玄の事は余り呼び捨てにしたりしません。

わたしは尾張国在住ですが信長~とか秀吉~とか、いわゆる尾張出身のこのbig nameに敬称などつけず普通に呼んでる人の方が多いようです。

それに対し、山梨県民の方は「信玄公」と言う敬称をつけて今も尊敬と感謝の意を持っているようです。

「山が有るのに“やまなし”」等と揶揄される事もある、山梨県は実はとても苦労を抱えて来ていました

その苦労を払拭し、発展へ導いたのが武田信玄だったのです。

痩せた土地と、たびたび起こる川の大氾濫

元々、甲斐国はその80%が山岳地でその上に土壌は火山灰です。

火山灰と言うのは、とても微粒で細かく水はけは良いのですが、栄養分が無いので稲作には全く不向き。

だから、私たち日本人にとって1番大事な米が穫れないと言う土地です。

それに輪をかけるように、領土内には「釜無川」「笛吹川」「富士川」と言った一級河川が走っていて、この大きな川が年に何回か氾濫を起こし、領土内の田畑を台無しにする事が多かった様です。

国内の生産性を高めるために、信玄はあの有名な「信玄堤」で氾濫して増水した川の流れを変え、堤防を造り新田開発をして石高をあげるのに尽力したんですね。

川の氾濫が起きると、軍の出陣に制限されてしまうと言うのも理由の一つらしいですが。

でも、山梨県は桃やぶどうなどの果物で有名ですが、特にぶどうは水のない土地でも育つ果物で、古くはシルクロードなどに遺されている石板や洞窟内の壁画にもぶどうは描かれています。

それはあの過酷な気候でも育っていた事を物語っています。

 

考察2~躑躅ヶ崎(つつじがさきやかた)の意味

信玄は甲府市にある、躑躅ヶ崎館を本拠として居ました。

ではこの躑躅ヶ崎は城なのでしょうか。

答えとして言うなら、この躑躅ヶ崎館が堅固な城に匹敵していたと言うのが真実でしょう。

甲州独自の築城術

甲斐国は四方を山で囲まれている盆地で、土地だけ見るともうそれだけで防御率の高い土地です。

そして躑躅ヶ崎館は甲州独自の築城法をしっかり取り入れた、“城のような館”だった為、敢えてそれ以上作る必要もなかったのです。

甲州独自の築城法の特徴は、「丸馬出し」と「三日月堀」と言うものでこれらを組み合わせ、堀に関しては内濠・外濠・空壕で主殿を囲み、曲輪も虎口も馬出しと組み合う事で外敵の侵入を固く守る事が出来、防御体制は十分過ぎるほど整えられていたので、安心して住まう事が出来ました。

この躑躅ヶ崎館は、城に例えれば城主のいる本城で、万が一の時に備えて1つ詰めの城を用意していました。

ですから、躑躅ヶ崎館が武田氏の本城と言い切っていいと思います。

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考察3~詰めの城「要害山城」

とは言っても、有事の時に一旦避難する場所もちゃんと用意はされてました。

これが戦国時代に良くある、「詰めの城」「後詰めの城」と呼ばれるもので、主に本城の背後などに天然の要塞として造られる城となります。今風に言えば「シェルター」みたいな感じでしょうか

これは滋賀県長浜市にある、国指定史跡の「小谷城」を例に挙げるとわかりやすいかも知れないです。

これは織田信長の妹 お市の方を妻にして信長と一時期同盟を結んでいた湖北の雄と呼ばれた、浅井長政(あざいながまさ)の居城ですが、彼はこの居城の北東の、小谷山頂上に大嶽城と言う一種の、いざという時の避難場所を造っていました。山城は背後の尾根沿いから敵に攻められることが多いので、こう言う形の詰めの城は多いです。

あ、話しが逸れてしまいました!城マニアなわたしはこう言った話しは、台湾ラーメンを食べるのと同じくらい好物で(笑)。

 

で話しは戻りますが、要害山城は躑躅ヶ崎館の詰めの城なんですね。

躑躅ヶ崎館の前を通る道をひたすら北上する事徒歩1時間!

馬ならもう少し早いですね。馬なら何分で行けるか計測できませんでした…そう、北上した要害山と言う標高700mの山に詰めの城として造られました。緊急時立て籠もり用。しかも信玄はこの要害山城で生まれています。生まれる事が緊急時だったのではなく、当時今川氏との小競り合いがあったりしたからです。

ですから、信玄は城を持ってなかったなんて事はないです。

詰めの城でも城は城ですからね。

自分で造ってはいませんが、自分のものとして持っていたのがこの要害山城になるでしょう。

(要害山城山頂)

 

考察4~信玄の城への考え方①

これには諸説ありますが、簡単に言えば「自国内には造りたくなかったけど、他の領地で奪ってリフォームする事の方が理にかなっていた」んだと思います。

ね、すごく合理的でしょう。こんな信玄の血液型はA型だと言う事です(笑)

わたしは余計なものは気にならない自分と同じAB型だと思ってました…余談ですが、上杉謙信はAB型という事です。これらは血判や遺骨遺髪などから判明してるので確かでしょう。

わたしも確かに義に厚いからなぁ(嬉)

はい、戻ります!まず何故造りたくなかったのか⁈

面倒だったからとか言う答えはダメ!絶対(笑)

えーとですね、本当にこれは真面目な話で、信玄の政策の1つに国力増強と言うのが有ります。

お米が獲れないので石高が低かったんです。だからここを何とかすれば農民兵士も増強出来るし、石高が上がれば沢山の領民を養っていけます。さしずめ、子沢山パパさんですね。

でも、甲斐国領内で戦を起こすと、農民や作物に被害が出てしまいます

だからこそ、信玄はそれなら最初から領土外で戦すれば自国に被害は被らないじゃん!と外へ外へ出て行く方法を取った訳です。

進出されまくりの隣国 信濃国はさぞや困った事だろう…

でも世は戦国です!勝って勝って勝ち抜いて生き抜いて行くのが戦国時代ですからね。

強いものが残って行く、弱肉強食の世界だと言う事です。

どれだけ、領土を拡大させて行けるか⁈守って行けるか⁈が、武将たちの「命題」でも有ったんです。

但し、これは信玄の生涯通じての好敵手とも言われる、上杉謙信の場合は違いましたね。

この人は、「義の人」と言われるように、無意味な侵略はしなかったとも言われています。信玄と正反対の性格だったからこそ、生涯通じて戦いあったのかも知れません。

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信玄の城への考え方②

甲斐国は長い間、武田氏が甲斐守護を務め続けています。

当然領地内には、他の国人クラスの居城も有ります。

だから、敢えて今更領地内に新たに城を築く必要は全く無かったというのも理由の一つとして挙げられます。

 

信玄の城への考え方③

信玄は、城を「建てる」のではなく、戦での最前線基地を城として構築することに目的を定めていて、それはあくまでも自分が戦いやすいようにすると言う意味合いでした。

その証拠に、長野県長野市の牧野島城や、同じく長野県下伊那郡松川町の大島城などは、ちゃんと元々の城主が居ます。

言葉は悪いですが、落城や降伏して城を明け渡しているのですね。

 

・牧野島城→戦国時代城主は、香坂宗重。信玄の攻略で無血開城し、その後は武田軍の武将馬場信春が入ります。

そしてその時に甲州流築城術を使って三日月堀などリフォームしています。

https://youtu.be/yoMQc4QVZHY

 

・大島城→築城主片桐氏は信濃源氏一族で、築城は平安時代にも遡る城ですが、戦国期に信玄の侵攻を受け降伏。その後は武田軍でも有名な、秋山信友が劇的ビフォーアフター。

ここも甲州流築城術全開で丸馬出しと三日月堀、枡形虎口をふんだんに使っています。城の背面は天竜川で天然の要害。城正面に三日月堀を二重に配することで重厚な作りになっております…

https://youtu.be/Tcxa4MlZndE

 

※静岡県の島田市金谷にある諏訪原城跡は、武田軍が徳川領攻略の為に築城したと「甲陽軍鑑」には有りますが、これは信玄ではなく、勝頼が築城したものという説が有ります。

こちらもやはり、甲州流築城術の特徴の三日月堀3〜5ヶ所と枡形虎口が残っています。

https://youtu.be/XKEq5McNTe0

 

 

という事で、今回のまとめに入ってみましょう。

 

〈武田信玄は城を持たなかった⁈理由や真相は?〉

  • 信玄は領地内には新たに城を築かなかった。
  • その理由は、本拠である躑躅ヶ崎館が城に匹敵するほどの防御力を兼ね備えた堅固なものであったから。
  • 要害山城は、あくまでも万が一の時の詰めの城であった。
  • 領土内で戦が起きると、元々痩せた土地の甲斐国なので、生産性が下がって逆効果になるから。
  • その代わり、奪った領地に有る城は、甲州流築城術で使いやすく新たに改修して戦をしやすくしていった。

 

城を築くと、城代と言って任せるものを入れておかなければならないので、その人選も大変だったでしょうし何よりお金が掛かります。

今あるものを改修ならリーズナブルに使う事が出来ます

その辺りの戦略は素晴らしいと感じました。

10余年掛けて信玄堤を造ったのも国力増強の為ですので、信玄と言う人は計算の出来る人だったのでしょう。

少なくとも、掛け算の七の段以上に今もまだ不安を抱えるわたしとは全く違う人種…だったのでしょうね(笑)

 

そんな信玄が居てくれたから、今の山梨県の土台は出来上がったと言っても過言ではない訳で、その気持ちは分かります。

実際、山梨へ行った時に「信玄の…」と地元の方に聞いたら、

「信玄などと呼ばずに、信玄公とお呼びくださいね」とやんわりたしなめられちゃいました。あの時はごめんなさい。

戦国大名も城も、みんな本当に居た人・有ったものだからこそ、知れば知るほどワクワクしませんか?しない…かな?

 

この記事で戦国マニアが増えてくれると嬉しいなぁ~

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