江戸時代

徳川家康の妻が多すぎる!20人以上だし年の差50以上とかも!!

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今回は、徳川家康の「妻」にスポットを当てたいと思います! 

どうやら、正室は2人、側室は18人で、計20人の妻がいたようです。

合計20人とか現代では信じられない話です^^;

果たしてそれぞれどのような妻たちだったのでしょうか?

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徳川家康の妻たち 20人

1人目 今川義元の姪 「築山殿」

最初にご紹介するのは、家康の最初の妻・「築山殿」です。しかし謎が多い。家康とは同い年という説と、1歳年上はたまた一回り年上という説があります。今でこそ女性のほうが一回り年上って普通になってきていますが、戦国時代ではまずありえません。私は1歳年上説が有力だと思いますね。

かなり嫉妬深く気位の高い女性だったので、一回り年上説が出たのではないかと思います。築山殿がトラウマになったのかはわかりませんが 笑 以降家康は、身分の低い女性を好んだといわれています。

そんな築山殿ですが、武田家との内通疑惑の疑いをかけられ、あっけなく殺されてしまいます。原因は嫁姑関係。息子の信康と妻の徳姫の夫婦関係は当初は良好で娘も2人産まれますが、肝心の跡取りがなかなか誕生しない。

徐々に夫婦関係も悪くなり、姑である築山殿が「跡取りも産めぬ女など妻ではない」などと、きつい言葉を吐いたりしたみたいですね。そこへ追い討ちをかけるように、以前は武田の家臣で後に徳川の家臣となった者の娘を側室に迎えるのでした。

徳姫としては、女心ズタズタですよね。ここから築山殿悪女説が出たのだと思いますが、徳姫はなんと信長の愛娘。信康とはもともと政略結婚でした。傷ついた徳姫は、父・信長に書状を送ります。内容は「築山殿は武田と内通している。夫の信康に自分悪口を風潮している」などでした。

それでなくてもキレやすい信長は、家康に「築山殿及び嫡男の信康を処刑しろ!」と命令します!苦渋の決断を迫られた家康。妻である築山殿は、家臣たちに殺害させ、信康には切腹を命じたのでした。

通常側室は何人いても、正室は1人ですよね?家康の場合、先に築山殿が亡くなっているので、正室が2人いるわけです。今でいえば先妻と後妻ですね。

 

2人目 朝日姫

次にご紹介するのは、2人目の正室「朝日姫」です。姫っていうからにはどこぞの姫って思いませんか?実は豊臣秀吉の妹でした。笑 でもこの人、家康の妻の中で一番不幸だったのではと思うのです。

実は彼女、別な男性と結婚していたのです!じゃあなぜ家康の正室なの?ってなりますよね?豊臣家を磐石のものとするため、兄・秀吉が無理やり離縁させて、築山殿亡き後やもめとなっていた家康の正室として朝日姫を差し出したのです。

朝日姫は内心嫌でも、兄の命令には逆らえなかったようです。政治に利用された朝日姫。本当かわいそうです。それでも、悲しみを胸に抱いて大坂城から家康のいる駿府城へ輿入れしたのです。大阪から静岡ってちょっと距離ありますよね。さぞ道中不安だったに違いありません。涙

しかも年齢が44歳と、当時として高齢の輿入れでした。家康も45歳。2人は意外と年齢が近かったようです。笑 そして朝日姫は駿河に居を構えたので、人々から別名「駿河御前」ともいわれました。

しかし、母・大政所の病気を理由に大坂へ戻ったきり駿河には帰らず、自身も病の身となって47歳の若さで亡くなってしまいます。

戦いに翻弄された悲劇の女性ですよね。この朝日姫、ドラマや映画でも美人とブスな女優さん半々ぐらいが演じられているところがおもしろいですね。秀吉の妹なので、醜かったのではともいわれていますが、肖像画はそれほど醜くありませんね。近年では大河ドラマ「真田丸」の清水ミチコさんの印象が強烈でした。終始無言の仏頂面。笑

 

3人目 小督局

次にご紹介するのは、家康の最初の側室「小督局」です。彼女は、別名「おこちゃ」「於万の方」ともいわれました。実は小督局、家康築山殿の侍女(雑用や身の回りの世話をする女性)として働いていた人でした。ところが、家康の風呂の世話をしていたときに、お手付きとなってしまいます。笑 そして子供を身ごもるのですね。

なんと産まれた子供は、双子の男子でした。現在ではありえないことですが、昔は「畜生腹」といって双子は忌み嫌われる存在でした。結局、一人は実家の永見家へ預けられることになったのです。

もう一人はというと、於義伊と名付けられしばらくは手元で育てられましたが、家康は「誠にわしの子か?」って疑うのですよ。侍女が他の男と関係するってまずありえないと思います。於義伊が2歳のときにようやく父子の対面をしたほどでした。家康疑い深いですね。苦笑

その後、於義伊は11歳で秀吉の養子になり、元服して「秀康」と名乗りますが、秀吉に実子・秀頼が誕生したことから、肩身が狭くなり結城家の娘と結婚したことを期に、婿養子になると、結城秀康と名乗りました。母である小督局も我が子秀康に着いて、福井へ移住。秀康が34歳の若さで亡くなると、家康の反対を押し切って、髪を落とし出家。小督局自身は72歳と長生きでした。

 

4人目 「西郡局」(にしごおりのつぼね)

次にご紹介する女性は、家康初の側室といわれる「西郡局」(にしごおりのつぼね)です。西郡局は、今川家の家臣・鵜殿長持の娘で、父・長持が家康と戦い敗れた際、なんと家康への忠誠への誓いとして、娘を側室として差し出してしまったのです。戦国時代は当たり前だったのかもしれないけど、かわいそうだし、親父なにを考えているんだよ!っていってやりたくなりました。

このとき、まだ家康も若く21歳。けれど、西郡局も正室の築山殿同様生年が不詳なのですよね。家康が若い頃なので、同年代が10代後半ぐらいの女性だったのではと、考えられます。3年後には次女・督姫が誕生!その後、督姫も北条氏政の嫡男・北条氏直に嫁ぎますが、夫・氏直が30歳で病死したため、秀吉の仲介で池田輝政という武将と再婚しました。西郡局自身は、京都の伏見城で、慶長11年(1606年)に亡くなっています。

 

5人目 西郷局

ここからご紹介するのは、「西郷局」です。通称「お愛の方」と呼ばれた西郷局は、これまでの側室と比べると身分が低く、下級武士の子供として産まれました。西郷局は、家康より9歳年下で、母が服部平太夫という人物と再婚しています。「服部」って苗字に見覚えありませんか?実は、西郷局の義父は伊賀忍者の服部一族の1人だったのです。

西郷局自身も一時期「服部姓」を名乗っていました。その後西郷局は成長すると、先妻を亡くした従兄の西郷義勝の後妻になるのです。つまり西郷局は、最初から家康の側室ではなかったのです!

しかも、最初の夫である義勝の主君はなんと家康!主従関係からのある意味兄弟という複雑な人間関係が。 笑 この時代、主君の側室を家来に下げ渡す行為は一般的でしたが、家来の妻を主君がもらい受けるってのは、珍しい気がしますね。それには家康なりの理由が。

義勝との間に、1男1女を設けますが、義勝は武田軍との戦いで戦死してしまいます。未亡人となった西郷局。家康は不憫に思い自分の側室にしたのです。西郷局は、それは美人で優しかったので、家康のみならず家臣や侍女たちからも好かれたようです。

容姿や性格のみならず、家康は西郷局が未亡人という点を好んで側室にしたのです。俗に「後家好み」とディスられる家康ですが、苦笑 この時代いくら美人で優しくても跡取りを産めない女性だと石女(うまずめ)といって、離縁されるケースがありました。なので子供が産める女性かどうかが重要で、わかりやすかったのが子持ちの未亡人。西郷局は家康の身体検査に合格したってわけです。

そんな西郷局にも弱点が!極度の近眼でした。自身の目が悪いこともあり、世の盲人の女性たちに食べ物や衣服をただで与えたるなど、今でいう「福祉活動」に力を入れていた女性。目が悪くても聖母のような女性だったのだろうと推測できますね。家康お目が高い。笑

けれど蜜月は長くは続きません。家康との間に男子が2人産まれると28歳の若さで亡くなります。なんと、2人うち1人の息子が後の2代将軍・徳川秀忠!家康は、一番愛した女性の子供を将軍にしたかったのだろうと思います。

 

6人目 お梶の方

次にご紹介するには、「お梶の方」です。彼女なんと家康とは36歳も歳が違ったのです!

家康49歳のとき、お梶の方はなんと13歳!今なら犯罪です。苦笑

家康の寵愛ぶりはすごかったようです。実はお梶の方、いったん松平正綱に下げ渡されますが、わずか1カ月で家康のもとへ舞い戻ってきます。正綱と仲が悪かったわけでなく、家康の子供を身ごもっていたから戻ったというのが、真相のようです。なんとも間が悪いですね。苦笑

若くして側室になったり、家康の家臣の妻になったりと、ロリータ的女性なのではと想像される方も多いかと思いますが、実は真逆で「男勝り」な女性でした!

なんと関が原の戦いで、家康の出陣に女性でありながら、男装して同行しているのですよ!すごいですよね?実際に戦ったのかまでは不明ですが、女性なので槍で突いたりはしたのだろうと考えられます。

家康は男勝りな気質も気に入り、「お勝の方」と改名させたのですね。「そなたがいたいから戦に勝った!だから勝と名乗れ!」と。笑

その後、お勝の方は30歳のときに家康の最後の子供あたる「市姫」を出産しています。家康の元へ返されたときの子供はどうしたの?って思いますよね?どうやら産まれたという情報がないので、残念ながら流産したのだろうと推測されます。

この市姫もわずか4歳で亡くなってしまいます。子供運がないのでしょうか。かわいそうに思った家康は、お勝の方を別の側室の子・鶴千代(後の水戸藩徳川家の祖・徳川頼房)の養母にしたのでした。家康の優しい計らいだと思います。

 

7人目 「阿茶局」(あちゃのつぼね)

ここからのご紹介は、「阿茶局」(あちゃのつぼね)です。彼女の父は、武田家の家臣でした。まあまあいいところの出なのです。そして、神尾忠重という武将に嫁ぎ、2人の男子を産みますが、幸せな生活は長くは続きませんでした。

夫・忠重が亡くなり、2人の子供を抱えて今後どうしたらよいかと、不安になっていたところ、突如家康の側室になることが決まります。

前述のお梶の方もそうですが、阿茶局も美人に加え、馬術や武術が得意な女性だったので、戦いに同行したようです。家康は強くて美しい女性が好みだったのでしょうか? 笑

そんな阿茶局は、信長が本能寺で亡くなったことに伴う跡目争いで、信長とともに亡くなった嫡男・信忠の長男・三法師を擁立する秀吉派と、信長の次男・信雄を擁立する家康派の戦いである「小牧・長久手の戦い」に同行します。

しかもこのとき、家康の子供を身ごもっていました。結局は馬に乗ったり走りまわったりしたので、流産してしまいます。残念ながらそれ以降家康の子供を妊娠することはありませんでした。

家康は阿茶局を手放さず、実母・西郷局を亡くした秀忠・忠吉兄弟の養育係として手元に置き続けました。普通なら子供のできない女性は用済みって感じで里へ返されるのが普通な時代ですが、家康は有能な部下として阿茶局に一目置いていたのだと思います。

縁を感じるのは、前夫との間に産まれた息子・神尾久光が後に秀忠の家臣となりました。家康の度量の大きさがうかがえますね。血がつながらないからといって、ないがしろにするのではなく、ちゃんと役職を持たせる。愛する女性の息子っていうのもあるかもしれませんが。

老いても尚、阿茶局の手腕は衰えを知りませんでした。ある日、方広寺という寺の鐘に「国家安康」「君臣豊楽」などと刻まれたため、家康は「これはわしに対する呪詛だ!」と主張!大仏開眼供養の中止を求めるのですが、豊臣側は聞く耳を持たない。そこで交渉役として阿茶局登場!凄いですよね。一側室の域を越えています。

さらには、大坂冬の陣のときも、徳川方の使者として大坂城へ向かい、淀殿と対面して交渉にあたっているのです。女性でいるのがもったいないですよね。男性なら徳川を代表する有能な家臣になったに違いありません。

家康が亡くなると、他の側室たちみな剃髪したのですが、阿茶局だけ髪を落とさずそのままでした。どうやら家康の遺命(故人からの命令)があったようですね。自分の死後も活躍してほしいとの思いがあったのでしょうか?極めつけは、竹橋に屋敷まで与えられる好待遇!

その後、秀忠の娘・和子が朝廷へ后として、入内するときも母変わりとして付き添い役を引き受け、さらには和子の夫にあたる後水尾天皇から「従一位民部卿」という偉い位まで授けられました。ここまでくると、現代でいえばキャリアウーマンでしょうか?

我が子同然のように育てた秀忠が54歳の若さで亡くなると、ようやく剃髪したのですね。「私の役目は終わった」と、見届けた感があったのかもしれません。阿茶局自身は、秀忠が亡くなった5年後に83歳で亡くなりました。側室の中では、一番長生きですね。

 

8人目 下山殿

次にご紹介するのは、「下山殿」です。下山殿は、もともと父親が武田家臣の秋山越前守という人なのですが、なんと信玄の娘ではないという説もあるのです!真相は藪の中ですが、もしも信玄の娘ならばもう少し優遇されたはずだろうし、詳しい史料が多く存在するはずなので、私は家臣の娘説が有力だと考えます

その後、穴山信君の養女になります。養父・信君が武田家から織田家の家臣に鞍替えしたとき、織田家を通じて、下山殿は家康の側室に。翌年には、家康の五男にあたる信吉が誕生。信吉の「信」って字がやはり武田家ゆかりの者ということを表現したかったのでしょうか?

しかし、下山殿は28歳の若さで亡くなります。短命の家系だったのか、忘れ形見である信吉も21歳で亡くなってしまいます。

 

9人目 お松

次のご紹介は、「お松」という女性です。ほとんど、史料がないほどの謎多き女性で、家康のご落胤といわれる「松平民部」という武将を出産しています。

生年や没年、出生地ともに不明!逆に気になります。笑 息子の民部に関しては、家康が厄年のとき(おそらく42歳)に産まれ子供だったため、疎まれたのです。不憫に思った異母兄の次男・秀康が自分の養子にして、大坂の陣に参戦したりもしますが、35歳で亡くなります。

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10人目 茶阿局

ここからは、「茶阿局」です。先ほどご紹介した「阿茶局」と混同しそうですが、全くの別人です。笑     茶阿局は、最初鋳物師の妻でした。武士の妻ではなかったのですね。夫と娘とともに慎ましく幸せに暮らしていましたが、自身が美人であることが、生活を一変させてしまいます。

村の代官が、茶阿局の美貌に横恋慕してしまうのです。思い余った代官は、寄りによって鋳物師の夫を闇討ちにして殺害!この後茶阿局のとった行動がすごい!夫の仇をとってほしいと、鷹狩りにきていた家康に直訴!家康も「わかった!」と仇を討ってくれたのです。家康は美貌もさることながら、物おじせず直訴する姿に一目ぼれしてしまいます。笑 半ば強引に娘とともに浜松城に連れ帰ることに!代官の立場は!笑

ほどなくして、家康の6男にあたる忠輝、その2年後には松千代が誕生。しかし、松千代は6歳で夭折していまいます。忠輝に関しては、家康が異様に嫌ったのです。なぜでしょう?深く寵愛した女性の子供ならかわいいはずなのに。

実は、ある理由が隠されていました。忠輝の面差しが自害に追いやった長男・信康に似ていたことが理由でした。似ているだけで嫌うなんて忠輝がかわいそう。

茶阿局自身は、阿茶局とともに徳川家の実務的ポジションで活躍。北政所(秀吉の正室)や伊達政宗(息子・忠輝の岳父)との交流があったようです。家康が江戸から駿府へ隠居のため移住したときも、一緒に移住。家康死後は、再び江戸へ引っ越して静かにこの世を去りました。

 

11人目 お仙

次にご紹介するのは、「お仙」は、武田家の家臣・宮崎泰景の娘として産まれました。徳川家の奥勤めをするうちに、側室にされます。家康との間に子供はできなかったそうです。家康は結構武田家家臣の娘を側室にしていますね。身分の低い家の娘が好きだといわれているので、何だか意外な気がしますね。

 

12人目 お久の方

次のご紹介は「お久の方」です。お久の方は、北条氏の遠縁・後北条氏の家臣・間宮康俊の娘でした。後に家康の側室となり、家康の4女にあたる松姫を出産するも、松姫はわずか4歳で早世してしまいます。

お久の方自身は、家康の後を追うように、家康死去の翌年、元和3年(1617)に亡くなります。生年が不明なので、何歳で亡くなったかも不明。

 

13人目 お亀の方

ここからのご紹介は、「お亀の方」です。お亀の方は今までの女性とはちょっと違うのですね。京都の寺の娘として産まれます。その後、竹腰正時という武将の妻となりますが、幸せは長くは続かず、長男・正信が産まれると、夫は病死。未亡人となったお亀の方。そんなとき、秀吉の馬廻組頭として仕えていた石川光元の側室として見初められます。

光元にはすでに正室がいて、この正室がすごく嫉妬深い人だったのですね。それでも、2人の間には光忠という男子が誕生。しかし、かえって正室の嫉妬を増幅させる形となり、お亀の方は郷里へ返され、離縁されてしまいます。

子供を養うため、奥勤めとして働きに出ます。そこで、今度は家康に見初められ側室に。笑 家康とは年齢差が32歳もあったのでほとんど親子のような感じです。苦笑 翌年には仙千代、さらに5年後には義直を出産します。仙千代は残念ながら6歳で早世しますが、弟の義直は後の尾張徳川家の祖となる人物!

それぞれ違う男性の子供を産んでいるお亀の方。ある意味、一時期話題となりました某大家族ドキュメンタリーの女性のようです。 苦笑 子供たちはどうなったのかというと、最初の夫との長男・正信は、将軍職を退き大御所となった家康の側近として召し抱えられることに!後年には、異父弟・義直の後見役を仰せつかるのでした。

2番目の夫との間に産まれた忠光もまた、異父弟・義直のお付きの者となり、大坂冬の陣・夏の陣に参戦しています。家康は連れ子たちを冷遇せず、結構取り立てていますね。残念ながら忠光は35歳の若さで亡くなってしまいます。

一方お亀の方は家康の死後、我が子義直に付き添って尾張(現在の名古屋)で生涯を閉じます。波乱万丈な生涯ですが、子供にも恵まれ晩年は穏やかに暮らせたのではと思います。

 

14人目 お万の方

続いてのご紹介は、「お万の方」です。このお万の方、結構流転の人生を歩んでいるようで、正木頼忠という武将の娘として産まれますが、伯父が急死すると代わって父が後を継ぐため、小田原での人質生活から一転実家のある上総(現在の千葉県)へ戻ることに。家庭の事情により、妻子とも離縁。お万の方の母はほどなくして、後北条家の家臣・蔭山氏広と再婚し、お万の方は蔭山家の養女に。

義父の氏宏は、それは信心深い人で日蓮宗に帰依していました。義父の影響かお万の方も日蓮宗に傾倒していったようです。

お万の方17歳のときに、伊豆の三島の宿で女中として働いてところ、なんと家康が客として泊まりにきたのですね。そこでお万の方は「かわいい子がいるぞ」と家康に見初められ側室になったのです!このとき家康54歳!若いころは、「後家好み」といわれた家康も年齢が上がるにつれ「やっぱり若いのがいい」となったようです。苦笑

 

15人目 お夏の方 

次にご紹介するのは、「お夏の方」です。別名「お奈津の方」ともいわれますが、ここではお夏の方で統一させていただきます。お夏の方は、伊勢の浪人である長谷川藤直の娘として誕生します。お夏の方には、兄・藤広がいました。藤広が30代のときに家康に仕え始めます。14歳下のお夏の方も兄にしたがって奥勤めとして奉公に上がります。

すでにロリコンと化していた家康。またも側室にしてしまいます。笑 ときに家康56歳でした。その後、大坂冬の陣には同行、夏の陣では家康が出陣して留守となった伏見城の留守役も仰せつかるほどでした。

そんなお夏ですがとても長生きて家康の孫で4代将軍・家綱の代まで生きたのです。享年80歳。家綱は、曾おじいさんの側室ということで大事に接していたようです。残念ながら家康との間には子供はできませんでしたが、幸せな晩年を過ごしたようです。

 

16人目 お竹の方  

ここからは、「お竹の方」をご紹介!この女性、出生から謎なのです。一番有力とされているのが、家家臣・市川昌永の娘という説。その他の家臣の娘という説もあり、驚きなのが、武田信玄の娘説もあるのです。信玄の娘だったら、絶対に正室として迎えいれているはずなので、家臣説が有力だと思いますね。天正8年(1580年)に振姫という女子を出産。その後、家康とともに駿府へ移住し、ひっそりと亡くなりました。

 

17人目 お梅の方 

続いては、「お梅の方」です。お梅の方は、家康の母方の祖母・華陽院の姪にあたる女性でした。つまり、家康の母とは従姉妹同士だったのです。それなのに、家康の側室っていいのでしょうか? 苦笑

お梅の方自身は、豊臣家家臣にあたる青木一矩の娘として産まれました。家康の親戚ということで、15歳で奥勤めに。しかしまたも家康の側室に。笑

このとき、家康は還暦手前の59歳で、お梅の方は15歳!

家康としては、現代に産まれていたらまずいですね。苦笑

その後、家康の腹心である老臣・本多正信の嫡男である本多正純の後妻にされます。いわゆる「拝領妻」となったわけですが、正純は複雑な気持ちではなかったかと思いますね。いくら素敵な女性でも、いわゆる上司の妾を貰うって感じなので。

結局、家康や正純との間にも子供は産まれなかったようです。しかも、時代の流れには逆らえず、家康が亡くなると息子の秀忠の時代になり、「先代の家臣」である正純は次第に疎まれ、ついには横手(現在の秋田県横手市)に幽閉されてしまいます。

秀忠の治世になり、力をつけ始めた側近の土井利勝の陰謀だともいわれています。そのころお梅の方は、剃髪し尼となっていろいろな地域を転々としたそうです。

 

18人目 お牟須の方

次にご紹介するのは、「お牟須の方」です。お牟田の方の父も武田家の家臣でした。側室の武田家家臣の娘率が高いこと!家康の趣味だったのでしょうか?

父である三井吉正は、本能寺の変が起こった後、旧武田領が家康の支配下となり、家康の家臣に。娘のお牟須の方は同じころ奥勤めとして奉公に上がります。

またも家康、手を出すのですね。苦笑 ほどなくしてお牟須の方は家康の側室となります。それから、秀吉による朝鮮出兵(朝鮮を日本の植民地にしようと、秀吉が仕掛けた戦争)があり、家康は秀吉の命令で九州の肥後国(現在の熊本県)に陣を取り、朝鮮出兵の命令が下るまで城で待機することに。

そんなどさくさの中、お牟須の方は、身重の身体で家康に付き添い肥後へ来ていたのです。ほどなく、出産しますがかなりの難産だったため、母子ともに亡くなってしまいます。家康の心中はいかばかりか。妻と子が同時に亡くなったので、かなりの傷心だったと思います。

そもそも、家康って側室も戦いに付き添わせていますよね?妻子の安全を思ったら江戸や駿府にとどめるべきだと思いますね。いわゆる身の回りの世話(夜の生活も含め)をさせたかったからが一番だと推測します。この辺は男の身勝手だと思いましたね。

 

19人目 富子

ここからのご紹介は、「富子」です。富子ってだれやねん!と突っ込まれそうですが、ほとんど情報がない謎の女性。わかっていることは、父は山田氏という武将ということと法名が「信寿院」というぐらいで、いつ家康の側室になったのかも不明。この時代名前に「子」がつくのって、結構位が高い女性にしかつけられないので、それなりの身分の女性だったのではと思います。

 

20人目 三条氏

次にご紹介するのは、三条氏です。数々の妻たちをご紹介してきましたが。唯一名前が不明な女性なのですね。三条というと、藤原氏の流れをくむ公家なのです。しかも青年や没年などがことごとく不明。

しかし、いくつか意外な事実が浮かび上がってきます。秀吉の妹・朝日姫の侍女をしていたようです。朝日姫には指一本触れなかった家康。当時「大さん」と呼ばれていた三条には手を出します。笑 天正17年(1589)には、家康のご落胤とされる小笠原権之丞を出産。

家康としてはまずいことをしてしまいます。天下の秀吉の妹を差し置いて、侍女のほうを妊娠させてしまったのだから。そこで家康は、身重の三条を自身の家臣・小笠原広重の次男・正吉の妻にしてしまいます。要は自分の後始末を押し付けたのでした。私はこの辺りの家康好きじゃないですね。

それで、権之丞は正吉の実子として育てられました。自身の出生の秘密に悩んだのか定かではありませんが、次第にキリスト教に傾倒。信長亡き後キリシタンは厳しい弾圧を余儀なくされていました。

大坂夏の陣の「天王寺の戦い」では、なんと豊臣側として参戦し戦死してしまいます。実の親子でありながら、家康とは敵対して亡くなったのです。なんとも哀れですよね。

 

ラスト お六の方

最後のご紹介は、「お六の方」です。お六の方は、今川家の家臣・黒田直陣の娘として産まれ、成長すると、家康の側室となっていた「お梶の方」の部屋子として働き始めました。

その後、家康の側室となり、なんと歳の差55歳!

家康の晩年は、なんの反動なのでしょうか?とにかく若い女性が好みだったようです。笑

大坂冬の陣にお供したりしたお六の方。けれど2人の間には子供はいなかったそうで、家康亡き後一旦は尼さんになりますが、還俗して喜連川義親(きつれがわよしちか)という武将の後妻に入ります。しかし家康の後を追うように、お六の方は家康の死から9年後、29歳の若さで亡くなってしまいます。

生前、「佐渡殿、鷹殿、お六殿」といううたい文句が広まりました。これは、家康の腹心は佐渡殿(家臣・本多正信)で、趣味は鷹殿(鷹狩りが一番の趣味)、側室であるお六が家康の夜の生活の一旦を背負っているとの、皮肉交じりの言葉が流行ったそうです。

 

 

まとめ

1  家康は後家好みといわれたが、晩年はロリコンになっていた。

2 身分の低い女性が好きといいながら、割と武田家家臣の娘を側室にしていた。

3 父親の認知をしないご落胤が2人ほど存在した。

4 数名生年や没年、出身地など不明な側室がいた。

5 戦場に側室も一緒に連れて行くことが多かった。

こうして見ると様々な妻たちでしたね。私が気になったのは、正室の築山殿と側室の尾万の方ですね。築山殿は、今川義元の姪とうことで気位の高い人だけれど、本当は家康を愛していて素直になれなかっただけではと。だからこそ最期が不憫でしたね。

一方のお万の方は、家康に臆することなく自分の意見を堂々といって、僧侶の命を助けた。女性で産まれたことがもったいない人だと思いましたね。

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