江戸時代

徳川家康の人生を年表形式でカンタンにわかりやすく!

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徳川家康のドラマチックな人生をわかりやすく年表形式にてご紹介!

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徳川家康の人生を最初から年表形式で見ていこう

天文11年(1542年) 竹千代生を受ける!

幼名は竹千代といって、なんと父と母が17歳と15歳のときに生まれた子供でした!どこぞのドラマかよと。笑

 

天文13年(1544年) 父と母の離別!

母・お於の方の兄で、家康から見たら伯父にあたる水野信元という人が、今川と敵対していた織田信長側についたため、父・松平広忠から離縁されてしまいます。なんともやるせない。

家康は後年の女好きは、幼くして実母と生き別れたのが原因だと私は思いますね。母の面影を追い求め続けていたのではと。

 

天文13年(1544年) 竹千代、織田家捕らわれの身の最中、父・松平広忠が暗殺される

母と生き別れ、松平家にとどまることを余儀なくされた家康。しかし、父が織田家を滅亡させるために、今川家に援軍を要請したところ「ならば我が子の竹千代を人質に差しだせ!」といわれます。

父・広忠はやむなく今川家に我が子を差し出そうとしたところ、横から織田家が幼い家康を強奪!笑 2年余り織田家で捕らわれの身に。ドラマなどで、幼き日の家康が10代中盤の荒くれ者だった信長(元服前は吉法師)に出会ったのはこの頃!

さらに、家康の受難は続き、父・広忠が急死。表向きは病死とされていたのですが、実際のところは、家臣たちによる暗殺だったようです。

 

天文16年(1547年) 竹千代、今川家の人質になる

父が暗殺されると、今度は織田家から今川家へ人質として送られます。家康は幼くして父母を亡くしました。だからこそ「天下泰平」が人一倍強かったのかもしれません。

 

天文24年(1555年) 元服し、名を竹千代から元信と改める

14歳のときに元服し、名前を「元信」と改めます。この「元」という字は、今川義元から1字もらっているのです!実は義元、元服の際に家康の烏帽子親を務めていました。

 

弘治3年(1557年) 築山殿と結婚!

ついに家康も結婚へ!相手はなんと今川義元の姪である「築山殿」という女性。築山殿っていう名前は、地名からとれていて、本名は不詳の謎多き女性。

 

永禄2年(1559年) 長男・信康誕生!

いわば、政略結婚であった家康と築山殿で、夫婦仲は不仲といわれていた二人の間に長男の信康が生まれます。後に、自害に追い込まれる信康ですが、彼が生きていたら立派な2代将軍となっていたと思うので、本当に悔やまれます。

 

永禄3年(1560年) 元信から元康と名を改め、桶狭の戦いで、今川軍の先鋒を任される

名前を「元康」と改名して、この時まだ人質なので、今川軍の先鋒隊として桶狭間の戦いに参戦していました。

 

永禄3年(1560年) 織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち取る!

家康も参戦した桶狭間の戦いですが、なんと大将であった今川義元が、年若い信長に討ち取られるという予想外の展開に!

 

永禄5年(1562年) 今川家と手を切り、信長といわゆる清州同盟を成立させる

大将を失って大損失と思いきや、家康にとってはむしろ棚からぼたもち。「これで人質生活も終わる」と、弱体化した今川家を見限り、信長と同盟関係を築いた家康。抜け目ないです。笑

 

永禄6年(1563年) 名を元康から家康に改める

今川家から解放された家康。烏帽子親となった義元はすでに亡くなっているので、元康と名乗らなくてもよくなり、「そうだ家康に改名しよう!」となったわけです。

 

永禄6年(1563年) 三河一向一揆を蜂起する

これは、浄土真宗の空誓(有名な蓮如の孫にあたる)が、門徒をまとめ、家康に立ち向かった戦いです。ただの戦いではなく、家康の家臣たちのなかには浄土真宗の者が多数いて、家臣を分断してしまうほどの戦いとなってしまいます。なんとか半年で沈静化しましたが、家康は心を痛めたと思いますね。家臣たちが敵味方に別れてしまったので。

 

永禄9年 (1563年) 姓を徳川に改め、従五位下に叙し、三河守になる

家康は、姓を松平から徳川へ改姓します。名前も苗字も変わるわで忙しいですよね。笑 戦国時代、名前が頻繁に変わるのはよくあることなのですが、姓まで変えるって珍しいと思いますね。

それはどうしても官位を貰うには、徳川を名乗る必要が!家康は源氏の流れをくむ「新田家」の新田義重の子孫、徳川(最初は得川)家が松平家のルーツだと主張して官位を得ました。かなり真意は怪しいのですが 苦笑 人質生活が長かった家康は、松平姓を捨てでも官位を得て偉くなりたいという気持ちが強かったのだろうと思いますね。

 

元亀元年(1570年) 信長との連合軍で、姉川の戦いで勝利を収める!

姉川の戦いは、信長・家康の連合軍VS浅井長政・朝倉義景の連合軍の戦い。そもそも、信長の妹・お市の方が長政に嫁いでいたため、信長と長政は義兄弟の間柄でした。ところが、長政が信長を裏切り、昔からの同盟関係を築いていた義景と手を組んで織田家滅亡を画策しますが、結局は信長・家康の連合軍の前に敗れてしまいました。

私はもし本能寺の変がなく、信長が生きいたら家康は忠実な家臣になっていたと思いますね。タヌキオヤジと揶揄される家康ですが、幼き日の人質時代に2人は出会っているので、家康は結構「兄貴」って感じで信長を慕っていただろうと想像します。

 

元亀3年(1572年) 武田信玄と激突!

静岡の三方ヶ原という場所で行われた「三方ヶ原の戦い」で、家康は信長とまたもタッグを組み、最強騎馬軍団を率いていた武田信玄と激突!だが、この戦いで家康は敗走を余儀なくされ、夢でうなされるほどのトラウマに。笑 以降家康は、信玄が苦手になったみたいですね。

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天正3年(1575年) 信長とともに、長篠の戦いに勝利する

長篠の戦いは、信長が「鉄砲隊」を用いて武田勢に勝利した戦いです。このとき、家康も信長側の軍勢として参戦。しかし、鳥居強右衛門(すねえもん)という大切な家臣を、武田のいけにえにされ、処刑されてしまった悲劇が。

彼は、もともと家康の家臣・奥平貞昌の家臣で、武田信玄の死後、貞昌は家康に寝返りをはかりました。これで信玄の息子である勝頼から怒りを買われていたようです。窮地に陥った信長軍を救おうと奮闘しますが、運悪く武田にとらわれの身に。歴史的な勝利の陰に、一武将の悲劇があったことがあまり知られていないのは残念ですね。

 

天正10年(1582年) 武田勝頼を追い詰め、甲斐にて自害に追い込む

長篠の戦いで敗れた武田家は、急速に弱体化しました。信長が信濃方面から、家康が駿河方面から攻撃し、勝頼は自害してしまいます。父の信玄と比べると大名としての力量はなかったようです。

 

天正12年(1584年) 秀吉からの申し出により、次男・於義丸を秀吉の養子にする

長男・信康は自害し、通常は次男を嫡男とするところですが、於義丸というのは母の身分が低く、日陰の存在でした。前田利家など数々の大名の子息や子女を養子にしていた秀吉は、例のごとく家康にも「於義丸を養子にちょうだい」と申し出るのです。それが、後の「結城秀康」で、「秀」の字は秀吉から「康」の字は家康からそれぞれとって名づけられました。

 

天正18年(1590年) 家康、駿府から江戸へ転封される

信長亡き後、天下人となった秀吉。けれども、徐々に家康の存在を脅威に感じるようになるのですね。駿河って現在の静岡県あたりで、日本のおへそぐらいの位置。そこで、経済や軍事力を確実につけていた家康。

そのような家康を秀吉は「このまま駿河に置いておけばいつ、わしもおやかた様(信長のこと)のように謀反にあうかもしれぬ」と思うわけです。そこで、家康を駿河からさらに東の江戸へ転封(国替え)を命じたのです。

 

慶長5年(1600年) 秀吉死去から2年後、家臣・石田三成との関ケ原の戦いに臨む!

秀吉も老いには勝てず、62年の生涯を閉じると、家康は動きます!「秀吉が死んで天下をとるのは今しかない!」秀吉の忘れ形見・秀頼はまだ幼少で、補佐役は石田三成でした。三成は仲間の家臣団からあまり評判がよくなく、内紛が絶えませんでした。そこに目をつけた家康。

日本列島を東西真っ二つに別れ、戦国時代の終焉を飾る最後の大きな戦いとなりました。西軍の小早川秀秋の裏切りなどもあり、家康率いる東軍の勝利で幕を閉じました!

 

慶長8年(1603年) 家康将軍になる!

関が原の戦いに勝利した家康は、ついに征夷大将軍に任ぜられます!名前や苗字を変えるという面倒なことをやったかいがありました。笑

 

慶長10年(1605年) 将軍職を秀忠に譲り、自身は江戸から駿府へ隠居する

念願の将軍になったのも束の間、わずか2年で、息子である秀忠に将軍職をあっさり譲ってしまいます。将軍になったのが、60歳と高齢だったというものあると思いますが、私は大御所になり黒幕的に幕府を操りたかったのではと思いましたね。

このとき、豊臣家には秀吉の側室であった淀殿と嫡男の秀頼がいたので、相手の目をあざむくためにあえて、将軍職を辞したのでは私は思います。しかも、また駿府へ戻る家康。やはり生まれ故郷が恋しかったのでしょうか?笑

 

慶長15年(1610年) 大坂冬の陣が起きる

家康は、成長した秀頼を脅威に感じていきます。武田家の勝頼と違って意外と秀頼はしっかりした青年になっていました。

これではまずいと、家康は言いがかりをつけます。豊臣家が再建に力をいれていた方広寺の鐘に「国家安康、君臣豊楽」と刻まれていたことから、「これは、家康の字を切り離して、豊臣家の繁栄を願う言葉だ。けしからん!」と豊臣に詰め寄ります。笑 豊臣側はそのようなつもりはなく偶然だったと私は思いますね。この言いがかりから大坂冬の陣が始まりました。

 

慶長15年(1610年) 大坂夏の陣が起きる

なんとしてでも、淀殿・秀頼を徳川の臣下として服従させたかった家康ですが、特に淀殿はプライドの高い女性だったので断固拒否!家康は武力をもって豊臣家を滅亡させる決意をします。

ここで、悲劇が発生してしまいます。家康の孫で秀忠の娘にあたる千姫は、秀頼の正室。千姫は「どうか夫の命を助けて下さい」と助命嘆願をします。しかし、家康は徳川家のため心を鬼にして「それは出来ぬ」と千姫の訴えを退けます。かわいそうですよね

その後、淀殿と秀頼は家臣の介錯によって自害。千姫のほうは、徳川四天王の1人とうたわれた本多忠勝の孫・忠刻と再婚します。まさに戦国の世の不条理。

 

元和2年(1615年) 75年の激動の生涯を閉じる

老いてもなお、元気だった家康ですが、鷹狩りの最中に倒れてしまいます。その3ヵ月後75歳でこの世を去ります。将軍になった以外にも、偉業を達成していた家康。太政大臣にも任命されていました。これが武家出身の者で、平清盛、足利義満、豊臣秀吉に続き4人目の快挙でした。しかも長命!徳川家も安泰となり思い残すことなく亡くなったのではと考えられます。

 

 

まとめ

1 幼くして父と死に別れ、母とは生き別れ、今川家の人質になるなど、不遇の生活を

 余儀なくされていた。

2 名前だけではなく、苗字も「松平」から「徳川」へ改姓していた。

3 若いころは、結構信長と行動を共にしていて、「兄」と「弟」のような間柄だった。4 意外にも将軍在位は2年と短かった。

5 当時の成人男性としては75歳と長命で亡くなった。

豊臣家に対しての仕打ちは、はたから見たら鬼畜に見えるかもしれません。けれど私は幼少からの忍従の日々が、人一倍「平和」に対して思いの強い家康を作りあげたからこそ、自分を脅かす存在の人間には容赦しなかったと思いますね。

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