江戸時代

徳川家定と篤姫の夫婦仲が実は…!?死因の真相は?

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徳川幕府第13代将軍 徳川家定とその妻 篤姫。この二人は政治的な背景がありながらも、夫婦仲は良かったと言われています。

2008年の大河ドラマ「篤姫」では徳川家定役の堺雅人さん、篤姫役の宮崎あおいさんの仲睦まじい姿を見て、そう思われている方も多いのではないかと思います。(私もその一人です)

しかし、家定と篤姫の間には子はおらず、篤姫が家定に輿入れしてからわずか2年弱で家定は亡くなっています。なぜ、その間に子供ができなかったのでしょうか?その辺りも気になりますよね。

本当は夫婦中に問題があったのか・・!?

歴史オタクな私が、2人の幼少期から馴れ初めまでを紐解き、その真実に近づいていきたいと思います!

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第13代将軍徳川家定ってどんな人?

徳川家定は徳川幕府 第12代将軍徳川家慶の四男として産まれます。家慶は14男13女を設けましたが、成人まで生き残ったのは家定だけ。そんな家定も病弱で身体が弱く、人前に出るのを嫌いました。

幼少の頃にかかった痘瘡(とうそう)が原因で目の上にあざがあったこと、脳性麻痺もあったとされ、人とのコミュニケーションがうまく取れなかったことがその理由ではないかと一説に言われています。

今の時代だったらいじめられたりしちゃいそうです…

ある意味このお家に産まれてよかったのか…小さいころから苦労しているんですね。

その後お父さんの家慶が病死し、徳川幕府第13代将軍に。しかし、将軍になってからも身体が弱かったため、政(まつりごと)は老中の阿部正弘が主に取り仕切っていました。

また、正室として鷹司政煕(たかつかさまさひろ)の娘・任子(あつこ)、一条忠良の娘・秀子を迎えましたが、いずれとも子ができないまま2人は亡くなってしまいました。

不運が重なる家定。

ここから篤姫との出会いになります。

 

 

篤姫ってどんな人?

篤姫(幼名はおかつまたはおいち)は、薩摩藩主島津家の一門・今和泉家領主である島津忠剛(しまずただたけ)の子として産まれます。

ご立派な武家のお姫様。幼少の頃は活発で聡明な子だったそうです。そのままいけば自分の家の家臣と結婚していたかもしれません。そんな篤姫がなぜ、徳川家の御台所になったのか?

そこには、徳川家の将軍継承問題が関係してきます。

当時の将軍家定には世継ぎがいませんでした。このままでは次の将軍が決められない。幕府が揺らげば社会不安を引き起こすことは間違いない。なんとかして早く世継ぎを誕生させなければ…

そこで、家定に新たな正室を迎えようということになったわけです。

徳川家将軍の正室は、代々公家の五摂家(ごせっけ)出身の娘と決まっていましたが、この頃五摂家で徳川の正室になれそうな条件の合う娘はおらず。

また、公家出身の家定の正室が2人とも早くに亡くなってしまったことから、公家からはなかなか正室が決まりませんでした。

そこで、第11代将軍家斉の正室が島津家の娘・茂姫であったことから、「島津家なら前例があるし、良いのではないか」ということで、島津家から家定の正室を迎える話が持ち上がりました。

当時、島津家には正室へと行けるような娘はいなかったため、分家であった今和泉家の篤姫が適当と判断されたのです。

そこから、島津斉彬の養女になったのち御台所教育を受け、江戸に上がる際は右大臣近衛忠煕(このえただひろ)の養女となり、家定に輿入れするのでした。(篤姫は武家出身ではあるが元は分家の娘で、将軍の正室には相応しくないと一部の声があり、公家の養女となった)

壮大なストーリーですね…

こうして、家定と篤姫は結ばれるというわけです。

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家定と篤姫の夫婦仲は?

さて、この頃家定の次の将軍をどうするかで幕府内で対立が起きていました。

紀州藩・慶福(家茂)を推す井伊直弼率いる紀州派と、水戸藩・慶喜を推す徳川斉昭・薩摩の島津斉彬率いる一橋派の対立です。

何を隠そう篤姫の養父は島津斉彬。篤姫は、次期将軍を慶喜にするために送り込まれたスパイだったのではないかと言われています。

また、旧事諮問録(ふるきことたずねしきろく)という書物の大奥にいた女性の証言に、「家定は大奥に泊まるのは月に1、2度しかなかった」と書かれており、少なくとも家定と篤姫の間には男女関係は成立していなかったのではないかと思われます。

しかし一方で、昨夢記事(さくむきじ)という当時の幕府内の様子が書かれている書物に、「家定と篤姫の夫婦仲は良く、大奥ではもっぱら世継の誕生を待っています」という記述があり、ペリー来航時の献上品の一つである鏡台の類(きょうだいのたぐい)という、今でいうミシンを家定は篤姫にプレゼントしているようです。

そんな家定は1858年6月25日、諸大名を招集して「喜福(家茂)を次の将軍にする」と宣言。

同年8月13日に井伊直弼が大老に就任し一橋派は処分されることになりましたが、その翌日に家定が亡くなっています。

この死に対し、謎が謎を呼んでいるのです。それは、一橋派・島津斉彬が義父の篤姫が、家定を毒殺したのではないかという論議です。しかし、これは極めて低いと考えます。

家定は猜疑心が強く、自らの暗殺を恐れ自分で料理を作ったりしていたことがあったそうです。

特にお菓子作りは大好きで、趣味だったそう。カステラや饅頭・ふかし芋などを作り、家臣たちにふるまっており、もちろん篤姫にも。

このことから、毒殺の可能性は極めて低いと思われます。

ただ、誰かの陰謀で毒殺以外の何かで殺されてしまった可能性は大いにおりえると思いますが…

歴史って謎だらけですね…

 

 

では、家定の死因は何だったのか?

通説によると、家定の死因は持病の「脚気」が悪化したためと言われています。

脚気とは、ビタミンB1欠乏症により心不全と末梢神経障害をきたす病気です。

実は玄米の胚芽という部分に、ビタミンB1がたくさん含まれているのですが、精米するということはその胚芽を取り除くというコト。

かの有名な徳川8代将軍吉宗は玄米を食べていたそうで、享年68歳とこの時代にしては長生きされています。おそらく他の将軍たちは皆白米を食べていたのではないでしょうか?

また、将軍は蒸し飯(むしいい)といって、毒殺を防ぐために米を沸騰したお湯に入れ窯で蒸したものを召し上がったそうです。これは正直美味しくなかったとか…栄養もごっそり取り除かれているでしょう…

他にも食べられない禁止食材なんかもあったりして、いくら高価な食材を使っていようと栄養不足になりやすい食事だったのではないかと思われます。

もう一つの通説によると、その時流行っていた「コレラ」で家定は亡くなったのではないかと言われています。

コレラとは、コレラ菌を病原体とする経口感染症で、感染源は糞便や吐瀉物に汚染された水や食物です。

ただ、「この時代九州や東海道にはコレラで死ぬ人はたくさんいたが、その地域で食い止められ、コレラは江戸には上陸しなかった」という記述や、「江戸だけで数十万人がコレラで死んだ」と書かれた書物もあり、はっきりした真相はわかりません。

ただ、家定は食事によってきちんとした身体作りが行われなかったため、病気(感染症)にかかりやすかったとは言えると思います。

 

死因はそれだけではなかった

それは鉛中毒です。

当時女性が化粧をするのに使われていた白粉(おしろい)には、材料が植物由来のものもあったそうですが、鉛が含まれているものが多く出回っていたとか。

将軍家の乳母はこの白粉を身体中、乳首にも塗っていたため、その乳を将軍になられる男(おのこ)は飲んでいたと考えられます。

家定がもし脳性麻痺だったとしたらこれが有力な原因だと思われます。といっても大量の鉛を一度に摂取しているわけではないので、急性の中毒を起こすとは考えにくいです。

しかし、徐々に身体に蓄積していった鉛の排泄が追いつかず、臓器に悪影響を及ぼしたことは間違いないでしょう。

また、鉛は血液中に酸素を運ぶヘモグロビンの合成を阻害します。酸素が届きにくい身体になってしまったことも、死因に十分に関係があるのではないかと思います。

ちなみに、鉛を摂取し続けると性欲減退、不妊、勃起障害が発生することもあるそう。家定もこの症状が原因で子供ができなかった可能性がありそうです。徳川のお世継ぎ問題、こんなところに落とし穴があったんですね…

 

 

まとめ

[aside type="boader"]

  • 徳川家定と篤姫の夫婦仲は、男女関係はなかったもの円満であった
  • 徳川家定の死因は毒殺の可能性は低い。可能性として、食事によって健康的な身体作りが行われず感染症にもかかりやすい身体であったこと、鉛中毒により徐々に臓器が蝕まれ何らかの病気で亡くなった、説が有力

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という結果になりました。

結局はっきりしたことはわかりませんでしたが、だから歴史は面白いですし、調べていく価値があると思います!

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