江戸時代

徳川家康の有名家臣たち!徳川四天王も!

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今回は、徳川家康の「家臣」に注目してみたいと思います。

どうやら、有名なところだと「徳川四天王」と呼ばれた家臣たちがいたようです。

まずは、徳川四天王のメンバーからご紹介!

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家康の家臣団!まずは徳川四天王から

四天王一人目 井伊直政

トップバッターは、大河ドラマ「おんな城主直虎」で直虎の養子として登場した「井伊直政」です。

ドラマでは、人気俳優の菅田将暉さんが演じて話題になった人物。

直政の父・直親の従兄にあたる井伊家当主・井伊直盛が、今川家の家臣として桶狭間の戦いで戦死。直盛亡きあと、直親が井伊家当主に推挙されます。その後、嫡男である直政が産まれ、井伊家は安泰かと思われたとき、直親は、桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にし、後を継いだ今川氏真に徳川家康(当時は松平元康)との内通を疑われ、殺害されてしまいます。

残された直政は、まだ幼少のため、直政のはとこで先代の直盛の娘である次郎法師という尼さんが直政に代わって当主に。名も「直虎」に改めます。数年後、小野道好という直親を殺害した井伊家の元家臣に所領を奪われる事態に。直政の命も狙われます!身を案じた直虎は、浄土寺に直政を預けて出家させました。

その後、直政の生母が松下清景という今川家の家臣と再婚。直政は松下家の養子になったことで、井伊家の家督相続権を放棄することに。と同時に身の危険にさらさせることは無くなりました。良かったです。涙

ある日、鷹狩りに出かけた家康は、つき添いできていた直政に対面。笑 「この子は大成する」といい、そのまま小姓として召し抱えられることに!

ここである噂が。家康と直政は男色関係にあったのではといわれています。有名なのが、織田信長と森蘭丸ですが、直政もどうやら家康の夜の相手をしていたようです。苦笑

事実、直政はイケメンで有名でした。秀吉の命のもと、秀吉の母・大政所が人質として江戸へ来たとき、直政が大政所を快くおもてなしをしたそうで、見た目だけではなく、心もイケメンな直政に、大政所がたいそう感激した逸話が残っているほどです。

直政は、武田勝頼との芝原の戦いで初陣を飾ります!戦い方が、「突きかかり戦法」という、とにかく前へ突き続けるといったシンプルなもの。苦笑 武将なら一心不乱に斬り合いが主流だと主のですが。

立派な青年となった直政は22歳で元服します。一般的には元服は15歳ぐらいだったので、直政の場合はちょっと遅いですよね?どうやら家康の寵愛が原因だったようです。苦笑

それでも、翌年には家康の養女・花と結婚。さらに、直政の名を全国にとどろかせる戦いが!小牧・長久手の戦いです。表向きは、織田家の跡目争いでしたが、実質は秀吉と家康の全面戦争だったのです!

小牧・長久手の戦いで、直政は鬼武蔵といわれた豊臣側の森長可と互角に戦って功績をあげます!井伊家のトレードマークである赤い甲冑を身につけていたため、「井伊の赤鬼」とおそれられたようです。普段は、小柄で少年のような顔立ちだったため、今でいう胸キュンになった女性たちも多かったのではと推測します。笑

 

名誉の負傷は致命傷?

直政は、関ケ原の戦いにも参戦。直政は、同じく家康の家臣である本多忠勝とともに東軍軍監に任じられます。

軍監になった直政は、全国の大名たちに「東軍に見方して!」と外交工作に奔走。戦いでは、娘婿で家康の4男である松平忠吉の補佐役になります。ところが西軍の島津義弘を追撃したとき、義弘の家臣・柏木源藤に狙撃され、肩を負傷。落馬の大けがを負ってしまいます。

直政は、傷が癒えぬまま戦いの敗戦処理に奔走した結果、42歳の若さで亡くなってしまいます。直政が亡くなったのは、西軍大将・石田三成のたたりだという噂が広まり、激高した家康は三成が所有していた佐和島城を破壊!同じく佐和島藩は廃藩に。

直政亡き後、長男は病弱のため次男・直孝が後を継ぎ、家康からは彦根35万石を与えられます。直政の死後も井伊家は繁栄をとげ、井伊直弼など5人の大老を輩出するなど徳川幕府の屋台骨として貢献しました。

 

 

四天王2人目 酒井忠次

徳川四天王2人目は「酒井忠次」です。忠次は、家康の家臣の中で古参の家臣です。なにせ忠次が最初に仕えたのは、家康ではなく家康の父・広忠なのです!家臣歴何十年だよって感じですよね。笑

家康が幼少のころ、今川家へ人質に出されたときに付き添った家臣団の中に、すでに忠次がいました。家臣団の中では最年長の23歳!10代や20代前半の家臣団に守られながら、家康は成長していきました。

29歳のときには、信長の家臣だった柴田勝家に城を攻められますが、一進一退の攻防の末、勝家を敗走させました。

30代となった忠次は、桶狭間の戦いのあと、家康の家老になります。しかし、三河一向一揆という浄土真宗の信徒たちが、武家権力に対抗した暴動なのですが、酒井一族のほとんどが浄土真宗側についたのに対し、忠次は苦渋の選択を迫られます。「殿を守るのは我なり」と、忠次は一族に背いてでも家康側につきました。これぞ男忠次!

家康側が勝利を収めると、和議に持ち込み一向一揆は沈静化。忠次はさらに、吉田城攻めという合戦で功績を挙げ、家康から城与えられます。晴れて忠次は城主となり、家康との絆も深まりました。

 

調整役ナンバーワン?

忠次は、調整役としても手腕を発揮しています!仲間で同じく徳川四天王の1人の榊原康政は、武田家が滅亡し、残された武田家家臣がほとんど井伊直政に配置され、「わしにはほとんど家臣が配置されなかった!悔しい!」と忠次に不満を漏らすのですね。笑 すると忠次は、「そのようなことをいってはいけぬ!」と康政を叱責!笑 ギクシャクしてしまった康政と直政の仲を取り持ったそうです。

そんな非の打ち所のないような忠次ですが、1つ悔やまれる出来事が発生します。信長が、娘・徳姫から夫で家康の嫡男である信康のこれまでの妻に対する酷い仕打ちをしたためた手紙をもらったことから、信康に切腹の命がくだされてしまいます!

忠次と同じく家康の大久保忠世は、信長から詰問を受けるため、信長のもとへ弁解の使者としておもむいていました。しかし、十分に弁護が出来ず、結果信康をそのまま自害。これは忠次もかなり悔やんだそうです。

その後、石川数正という古株の家臣が、突如徳川家を裏切り豊臣家の家臣になってしまいます。数正がいなくなってからは、徳川家一の重臣となりました!

さらに、61歳のときには、家臣の中では最高の位である「従四位下・左衛門督」を授けられます!その2年後には長男に家督を譲って隠居。ここまでで、十分仕事果たしたからでしょう?と思われがちですが、実は悲しい理由が隠されていました。それは眼病をわずらいほとんど見えない状態でした。京都に移り住んだ忠次は、秀吉からも心配され、世話係りの女性を派遣されるなど配慮されたようです。

 

主従関係以外にも?

実は、家康と忠次は主従関係であり「親類」でもあったのです。私もびっくりしましたね。一言ではわかりにくいので、みなさんメモのご用意を。笑

酒井家はもともと、家康の祖先である松平家の祖先・松平親氏と兄弟関係にあったそうです。しかも忠次の正室・碓井姫は家康の祖父・清康と後妻である於富の方の間に産まれた娘でした。つまり、妻は家康の義理の叔母になるのですね。苦笑 要するに、忠次は家康の義理の叔父であり家臣なのでした。うーんややこしい。笑

 

 

四天王3人目 本多忠勝

徳川四天王3人目は「本多忠勝」です。

大河ドラマだと近年、「真田丸」の藤岡弘、さんや「おんな城主直虎」の高嶋政宏さんなどかなり顔が濃いイメージがありますね。笑ドラマのみならず、最近ではゲームの世界でも忠勝は登場しています!「モンスト」ことモンスターストライクというスマートフォンアプリゲームです。時代ですね。笑

思わぬ形でブレイクしている忠勝ですが、家康より5歳年下で、初陣は大高城兵糧入れです。この戦いは桶狭間の戦いの前哨戦といわれた戦いでした。

忠勝は、大高城兵糧入れで無双の片鱗を見せます!父が戦死すると、叔父・忠真のもとで育てられました。次の戦いで叔父とともに参戦。忠真は槍で敵を倒すと、忠勝にむかって「この首をもって、汝の手柄にせよ」というのですね

ところが忠勝は意外な言葉を口にします。「わしは人の力を借りて、武功を立てたくはない!」手柄は自らつかみ取るものだと主張。このときわずか14歳。今このような14歳いますか?周囲の大人たちも「小僧只者じゃねえ」と思ったようです。笑

大人になった忠勝は、着実に腕をあげていきます。そして、徳川家を揺るがす三河一向一揆が勃発。浄土真宗の門徒たちの暴動にも臆することなく、忠勝は他の親戚たちが門徒側につこうとも、「我は殿の家臣じゃ!」と家康に忠誠を誓います。家康側につき数々の武功をあげたのです。

そうして忠勝は、家康が信長と同盟を組んでのぞんだ戦いである姉川の戦いに参加します。敵は、朝倉義景と浅井長政の連合軍で、朝倉軍の1万の軍勢が、家康の本陣に押し寄せてきました。

ところが、忠勝自らの強さを誇示したかったのかは不明ですが 笑 単独で朝倉軍に突撃。この戦いで、朝倉側の真柄直隆という武将と一騎打ちをして見事相手を倒し、手柄を立てたのです。

 

勇猛ぶりが原因で死を免れた?

忠勝といえば、57回の戦いのうちかすり傷1つ負わなかったというのが伝説となっています。伝説の1つとなっているのが、本能寺の変ではないでしょうか?

信長亡きあとの後継争いで、家康と秀吉が対立。長久手の戦いでは、家康が秀吉軍に思わぬ苦戦を強いられていることを知った忠勝が、大軍である秀吉軍へわずか500兵で家康本隊に援軍を送ります!自らの命を省みず、敵兵に立ち向かうその姿に、秀吉も「敵ながらあっぱれ!」と忠勝を討ち取ることを取りやめてしまうほどでした。

長久手の戦い以降、家康は秀吉の臣下となります。その際に忠勝は、秀吉の家臣である真田信幸に娘を嫁がせています。これには、家康の後の天下取りへの野望が隠されていました。真田家を徳川側に引き入れるための政略結婚だったのです。事実、信幸は後の関ヶ原の戦いでは徳川側につくことになったのです。家康やはりたぬきですね。笑

忠勝もまた、ただ強いだけではなく武士の情けというか優しさも兼ね備えた人物でした。真田家は親子で、家康側と秀吉側に分かれたため、秀吉側についた信幸の父・昌幸と弟・信繁(幸村)は、家康の命によって処刑されることが決まります。

ところが、忠勝は信幸の舅という立場も相まって、「殿、どうか命だけはお助けくだされ!」と、婿である信幸とともに家康に直訴し、昌幸と信繁の命を助けられました。

忠勝に残された逸話として、このような話があります。優しさも併せ持った忠勝。亡くなった敵兵をしのぶため、鎧の上から数珠をぶらさげていたようです。また、周りが刀や槍の貫通を防ぐため、防御性を重視した鎧を身に着けていたのに対し、忠勝だけ身軽さを重視した鎧をつけていたといわれています。だからこそ、天下無双の数々の伝説が誕生したのかもしれません。

同じ親類であり、家康の家臣である本多正信とは反りが合わなかったようです。知略謀略で相手を追い詰める正信に対し、体育会系で敵陣に1人でも突っ込んでいく忠勝。このような対照的な家臣がいたからこそ、家康が天下を取れたともいえますね。

 

 

四天王4人目 榊原康政

徳川四天王最後のご紹介は、「榊原康政」です。

前述の3人と比べると影が薄いですが、様々な逸話が残っている人物なのです。もともと榊原家は、家康の父・広忠の家臣・酒井忠尚の家臣だったので、康政にとって、家康及び徳川家は雲の上の存在だったのです。

康政の初陣は13歳で三河一向一揆でした。その際、主君の忠尚は一揆側につき、榊原家は徳川側につきました。一向一揆の功績により、家康から一字をもらい「康政」と名乗り始めます。

康政には、清政という兄がいましたが、兄に代わって家督を継ぎます。一説には清政が病弱だったらしく、そのため家督を弟の康政に譲り隠居してしまったようです。

数年がたち、長久手の戦いがやってきます。その際、康政は前代未聞の行動を取ります!なんと秀吉に向けて手紙を送るのですが、「御屋形様(信長)の恩を忘れ、織田家乗っ取りを企てるとは言語道断!どこの出身かわからない輩に誰が従うか!」という、とんでもない内容だったのです。苦笑

貰った当人の秀吉は激おこです! 笑 家臣たちに「康政を討ち取った者には、10万石を与える」と宣言!一人の首に10万石の懸賞がかけられたのです!秀吉かなり頭にきたのでしょうね。苦笑

しかし、意外な形で幕は引かれます。長久手の戦いで秀吉の甥・秀次勢を追い詰め、秀次についていた池田恒興らを倒します。その後、秀吉と家康は和睦し、康政もあれだけ喧嘩を売った秀吉から「従五位下・式部大輔」という地位を与えられました。

康政自身、かなりの達筆で家康の書状の代筆なども務めており、武勇だけではなく、文化面でも秀でた人でした。

 

若殿との失態をかばったのは康政だった?

康政は、家康の後継である秀忠の初陣に参戦。なにを隠そう関ヶ原の戦いだったのです。当初、真田昌幸と戦って倒したあとに、本戦に参加予定でした。しかし昌幸の思わぬ知略にはまってしまった秀忠は、身動きが取れず、とうとう父がいる関ヶ原本隊への参戦に遅刻してしまいます。

この場面は、大河ドラマ「葵徳川三代」が有名ですね。どうしようとおどおどする西田敏行さん演じる秀忠と「秀忠―!」と怒り狂う津川雅彦さん演じる家康。面白かったですね。

家康は、遅れて参加した秀忠に対して、キレて面会を拒絶します。苦笑 そこで救世主登場!それが康政なのです。「殿どうか若殿もやむにやまれぬ事情だったのです。どうかお怒りをお鎮め下され」といさめるのですね。しばらくして、家康と秀忠は和解します。これも康政の一言があったからこそです。

関ケ原の戦い以降、康政は老中に任じられますが、なぜか所領の加増が無かったのです。大きなミスをしていないのに、家康から距離を置かれてしまいます。康政は憤慨しますが、時すでに次世代の本多正信や大久保忠隣という家臣たちが台頭していました。老いにさしかかった康政は、自らを悟ったのか「老臣権を争うは某国の兆しなり」といって、せっかくの老中の座を退きます。

関ケ原の戦いから6年後、康政は毛嚢炎という細菌感染症の一種を発症して59歳の若さで亡くなってしまいます。病床には、関ケ原の戦いで康政に恩義を感じていた秀忠が見舞いに訪れていました。秀忠にとっては第2の父のような存在だったに違いありません。

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四天王以外の有名家臣

石川数正

次のご紹介は、「石川数正」です。数正は、家康が人質時代から仕える古くからの家臣でした。桶狭間の戦いで、人質先の大将である今川義元が討ち死にし、家康は独立を果てします。その後、家康の前に立ちふさがるのが織田信長。君主・家康と信長の間を取り持ち、清州同盟成立に奔走したのが数正だったのです。

家康家臣団を揺るがす三河一向一揆が、永禄6年(1563年)に勃発!数正の父・康正が浄土真宗側についてしまいます。ところが、数正は父についていかず、家康の元に残留。家康から評価を受け、嫡男・信康の後見役を任せられます。

その後は、姉川の戦い、長篠の戦いなどの戦いに参戦し武功をあげます。ところがここで悲劇に見舞われます。信康が切腹を命じられ自害。後見役って時代劇だと「爺」とか呼ばれていますよね?後見役となっていた数正は、さぞショックだったと思いますね。

信康の死後、今度は本能寺の変で、信長が家臣である明智光秀に謀反を起こされ自害してしまいます。信長の仇をとって秀吉が有力武将として頭角現します!今度は、家康と秀吉との間で、小牧・長久手の戦いが起きます。そこで、数正は家康に戦いは止めて秀吉との和睦を提案。翌年には、家康から一字を貰い「康輝」と改名します。家康古参家臣として、抜群の調整能力を発揮したのでした。

改名から8か月後、康輝は突如秀吉側に出奔!なにがあったのか!理由は定かではありません。秀吉に対して強硬派であった本多忠勝と対立していたとか、家康と仲が悪くなったとか、秀吉からの恩賞に目がくらんだのではと、様々な説か飛び交っています。

私は、やはり信康の自害が出奔の大きな原因だと思いますね。後見役は本来殿を守らなければならい立場。それなのに、死を防ぐことができなかった。康輝の立場として徳川家に居づらくなったのが真相だと思いますね。

出奔した康輝は、秀吉から河内国8万石を与えられ、さらには名前も一字をもらい「吉輝」と2度目の改名!豊臣家からは好意的にむかえられます。

ところが、困ったのが徳川家。徳川家の機密情報のほとんどを握って吉輝は出奔。苦笑

これでは、満足に戦えないので、家康は1から組織作りを変えたそうです。

61歳で亡くなるまで、信濃国松本(現在の長野県松本市)に10万石の加増をいいわたされ、移動を命じられます。それから、松本城の築城や道路整備に尽力。

 

大久保忠隣」(おおくぼただちか

次にご紹介するのは、「大久保忠隣」(おおくぼただちか)です。忠隣の父・忠世も家康の家臣でした。叔父は有名な、小説やドラマなどでもおなじみ「一心太助」に出てくる大久保彦左衛門!忠隣は10歳ころから家康に仕え始め、15歳のときに、遠江堀川城攻めで初陣。なんと敵の大将の首を取るという功績をあげ、将来を嘱望される若手の武将となったのです。

それから忠隣は、三河一向一揆、姉川の戦いと数々の家康が参戦した戦いに、自らも家臣として参戦し活躍するのですね。その中で、家康軍が苦戦を強いられた三方ヶ原の戦いで、家康を武田軍から守りながら浜松城へ撤退する役割を果たします。見事な忠隣の忠臣ぶりに、家康は感激。忠隣は奉行職の地位を得たのでした。

40歳になると、秀忠付きの家老になります。翌年には父・忠世がなくなり後を継ぎます。この後、関ケ原の戦いがあるのですが、忠隣は秀忠に付き添って中山道を前進していました。しかし、豊臣側の真田昌幸の籠城作戦に、攻め入るべきだと主張する本多正信ら他の家臣たちと意見が対立。結果、関ケ原に秀忠が遅刻するという大失態に。

関ケ原の戦い以降は、次世代エースとして徳川四天王に代わって老中に就任。他の酒井忠世や土井利勝らと共に、2代将軍となった秀忠の補佐役として活躍。

順風満帆と思われた矢先、暗雲が立ち込めます!大御所として家康は駿府城におり、かたや秀忠は江戸城にて将軍として君臨。しかし、実質政権の掌握は家康の手に。そのころ家康の側にいたのが、本多正信・正純親子でした。正信は家康の後継者指名の際、秀忠ではなく、次男の秀康を強く推していたのですね。これが後に火種となるのです。

身に覚えがない罪?

忠隣が50代も後半となったとき、嫡男・忠常を病気で亡くなってしまいます。我が子を失った喪失感からか、政務に手がつかなくなります。周りからも呆れられてしまう場面もあったそうです。

そんな忠隣が、豊臣秀頼と内通しているということを、ある浪人から密告されます。さらにライバルである正信が家康に告げ口するのです。

なんと忠隣がキリシタン弾圧のため大坂へやって来たところ、無実の罪で改易され、近江国(現在の滋賀県)へ流罪。徳川四天王の1人の直政の後を継いだ、次男・直孝のもとへ預かりの身となりました。

突然の冤罪の裏には、本多正信・正純親子の企てという噂が残っています。要するに自分たち親子にとって、忠隣は邪魔な存在だったのですね。

忠隣は、改易をいいわたされたとき、京の都の藤堂高虎の屋敷で将棋を指していました。家康の使いとして、京都所司代の板倉勝重が現れたとき、「流人の身になったら、将棋も指せないから、対局が終わるまで待ってほしい」といったそうなのですね。笑すでに腹が座っていたというか、冤罪であっても言い訳1つしない忠隣の武士の美徳を垣間見た気がします。

さらには、家康の死後に直高が忠隣の冤罪を秀忠に嘆願しようと試みますが、忠隣は「先代に対する不忠になるから止めてほしい」といったのです。無理するな忠隣といいたくなりましたね。以降幕府からの許しはなく、出家していた忠隣は75歳で生涯を閉じました。

 

本多正信

最後のご紹介は、「本多正信」です。今までの家臣たちと一味違うのですね。一言でいうと「腹黒」のイメージが強い人物。苦笑 なぜ正信は腹黒になったのか?それには彼の波乱万丈の人生が影響されているのではないかと推測します。

正信は、徳川家の頭脳として活躍するのですが、それには理由がありました。最初は家康の鷹匠(鷹狩りの従事した者)だったのです。普通は小姓とかからスタートだと思うので、他の家臣とは一線を画す感じですよね

突如、正信は不幸に見舞われます。桶狭間の戦いの際に膝を負傷。以降足に障害を負ってしまうのです。徳川四天王の忠勝のように勇猛果敢に戦って武功をあげるということができなくなったのです。だからこそ正信は、知恵をめぐらせて頭脳をもって家康に仕えようと決意したと考えられます。

鷹匠から家臣となってから、あの三河一向一揆が起きます!なんと正信は家康を裏切り、一揆側に加勢!何度も書きましたが、みな家臣たちは家康側について、中には肉親と袂を分かつ人もいたのに。苦笑

一揆軍が家康軍に鎮圧されたあとも、簡単には「殿やはり戻って参りました」とはいかなく 苦笑 松永久秀という武将のもとへ身を寄せるなどして、放浪の時期を過ごしたようです。

忠隣の父・忠世の取り持ちにより、ようやく正信は徳川家家臣に復帰します。その後、家康が旧武田領を手に入れると、正信は策士ぶりを発揮していきます。武田の旧家臣たちに、領地をやる代わりに、「おぬし徳川の家臣にならぬか?」と勧誘したのですね。正信の勧誘は見事成功!

48歳のときには、朝廷から「従五位下、佐渡守」の位を授けられます。小説やドラマなどで家康が正信のことを「佐渡」と呼ぶ場面が度々出てくるのですが、位のことを指しての呼び名でした。

関が原の戦いでは、秀忠に従って真田昌幸らがいた上田城の戦いに参戦。秀忠より2枚も3枚も上手だった昌幸の罠にはまり、思わぬ苦戦に。関が原の戦いへのタイムリミットも近づき「若殿、ここは撤退して殿がいる関が原にお急ぎなさりませ!」と真言しますが、秀忠はあくまでも昌幸を倒すのに必死で、聞く耳を持ちません。案の定秀忠軍は関が原に遅刻してしまいました。

関が原の戦いは、家康軍の勝利で終わり、今度は家康の後継者争いが起きます。家康家臣団は、大部分は秀忠を押しますが、正信と嫡男の正純は次男の秀康を押します。関が原への遅刻が尾をひいている気がしますね。笑

その後正信は、家康隠居後も2代将軍となった秀忠を支える老中的ポジションへ。この時期、あの忠隣を落とし入れて、失脚させたのではという疑惑が持ち上がるのです。あくまでも疑惑として真相は藪の中。私は黒だと思いますね。正信は障害があるため、他の家臣より不利な立場だった。例え嫌われようと、罵倒だれようと己の立場を死守するのに必死だったと思います。

すでに75歳となっていた正信は暇を出され、家康死去の2ヶ月後、後を追うように正信もこの世を去ります。家康より4歳年上で「佐渡は友だ」とまでいわしめた正信。波乱万丈な人生でしたが、最後は幸せだったのではと思います。

 

 

まとめ

1 徳川四天王という、特に家康から信頼された家臣団がいた。

2 井伊直政はイケメンで有名だったが、戦いで負った傷が致命傷となり亡くなってしまう。

3 酒井忠次は、家康の父・広忠の代から長く徳川家に仕えた武将だった。

4 本多忠勝は、57回の戦いのうちかすり傷負わなかったほど強かった。

5 榊原康政は、秀吉に対して挑発する手紙を送り懸賞首をかけられていた。

6 四天王以外では、石川数正は信康の後見役を任せられたが、自害を防げなかったことを責任に感じ、徳川家での居心地が悪くなり、家康を裏切り秀吉についた。

7 大久保忠隣は、仲間から罪をでっちあげられ、冤罪をこうむるも弁解しなかった。

8 本多正信は、桶狭間の戦いで足を負傷し障害を負うも、家康からは友といわれるほど信頼された。

 

それぞれとてつもない人生を送っているなあと思いました。私だったら背負いきれない。私は、榊原康政の秀吉への手紙と大久保忠隣の冤罪が印象に残りましたね。

前者はユーモアがあるなと。笑 後者は不器用者というか、私なら裁判起こしてでも声高々に「冤罪だ!」って叫びますね。それをせず忠隣は自らの胸の中に閉まってしまったところに真の武士道を感じました。

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