安土桃山時代

豊臣秀吉の家臣団!天下を支えた有能家臣達をピックアップ!

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天下を統一した人物はこれまでの歴史でわずかしかいません。

豊臣秀吉は天下統一を果たした選ばれし人物ですが・・・

その天下統一は有能な家臣達によって支えられていました。

秀吉は才能ある人物を発掘し採用する才能があったとされています。

秀吉を支えた家臣団はどういった人物達で構成されていたのでしょうか?

今回は豊臣秀吉の家臣をご紹介します。

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豊臣秀吉を支えた家臣団

豊臣秀長(秀吉の右腕)

秀吉の異父弟です。秀吉の片腕として活躍しました。その実力は影の太閤とも噂されるほどの実力の持ち主です。人望もすごく厚く戦に出ても秀吉に勝るとも劣らない実力の持ち主でした。

この秀長の死後、豊臣政権はバランスを崩し始めることになります。

豊臣秀吉が明を征服して東アジアを統一するという構想を立てるのも秀長の死後といわれています。豊臣秀吉が外国に目を向け始めてから、豊臣時代がおかしな歯車が回っているかのように終わりに向かって突き進んでいきます。

 

千利休(茶人)

織田信長が堺を直轄地とした際、茶頭として雇われ、本能寺の変後は豊臣秀吉に雇われました。千利休は豊臣秀吉の信頼を大きく受け、黄金の茶室の設計にも深く関わっていた伝えられています。

わび茶の完成をさせ、豊臣秀吉の聚楽亭に屋敷を構えるなど、茶人としてまた豊臣家家臣として名声と権威を誇っていました。しかし最後は豊臣秀吉の逆鱗に触れ切腹を命じられて、千利休の生涯は幕を閉じました。

 

黒田官兵衛(軍師)

軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をしました。本能寺の変で信長が倒れたことを知った黒田官兵衛は豊臣秀吉に対して毛利輝元と和睦して明智光秀を討つように献策し、中国大返しを成功させたという逸話が残されています。

 

竹中半兵衛(軍師)

美濃の斎藤家の家臣時代は尾張の織田信長による美濃侵攻をよく防いでいたといいます。永禄10年に織田信長の前に滅ぼされた斎藤氏、信長は浪人していた重治(半兵衛)を家臣に迎えたいと考えていました。美濃攻めで頭角を現していた木下藤吉郎(豊臣秀吉)に勧誘を命じ秀吉の「三顧の礼」を持って重治を勧誘した。重治(半兵衛)もまた秀吉の才能を見抜き木下藤吉郎(豊臣秀吉)の家臣になったとされています。

二人の軍師・竹中重治(半兵衛)黒田孝高(官兵衛)は二兵衛(にへえ)とも呼ばれています。

この両名が豊臣秀吉の家臣として同時に仕えていた期間は播磨攻めの短い期間でしかなかったこともあったため、後世になって呼ばれた名称といわれれています。

 

 

豊臣政治を司っていた家臣達

五大老と呼ばれる家臣団は政治を司っていました。

政務と軍務、豊臣家の末期に

  • 徳川家康
  • 前田利家
  • 毛利輝元
  • 宇喜多秀家
  • 上杉景勝

の五人が務めました。当初は6大老で小早川隆景という人物がいましたが、亡くなったあとは、五人となり、五大老となりました。

ある説によると豊臣家は嫡男の秀頼がまだ幼少で天下を治める器量があるかないかもわからない状態にであったと言われています。五大老という制度を作ることによって、天下を狙えそうな有力大名を互いに牽制させることで豊臣家の転覆を防ごうとしたものだともされています。

 

内府・徳川家康(後の天下人)

秀吉とは仲が良かったのですが、家康も天下統一を狙っていました。五大老時代は家康にとっては我慢の時代といえる。豊臣秀吉と前田利家の死後関ヶ原の戦いに挑むこととなります。その後は、みなさんもご存知のように、関ヶ原の戦いに勝利し、江戸幕府を開きます。

 

大納言・前田利家

若かりし頃は槍の使い手として、槍の又左の異名がついていました。豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍した。秀吉の死後8ヶ月後に病に倒れ亡くなります。正室はまつ殿でした。

 

毛利輝元

毛利元就の孫です。関ヶ原の合戦の西軍の総大将でした。徳川家康率いる東軍に敗れ、所領120万石から30万石に減りましたが、お家再建に奮闘し73歳まで生きました。

 

宇喜多秀家

父直家死後、豊臣秀吉の養子となりました。関ヶ原の合戦の合戦では西軍につき勇猛果敢に戦うが敗れ、八丈島に流されました。83歳まで生き、昔としてはとても長生きな人生を送っています。

 

上杉景勝

上杉謙信の甥っ子です。無口な性格であまり笑わないのが特徴です。小早川隆景死後に五大老になりました。関ヶ原の合戦で敗れ、所領120万石から30万石に減っています。お家再建に勤め69歳まで生き、亡くなっています。

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豊臣行政を司っていた家臣たち

行政を司る組織です。

  • 検知は浅井長政、石田三成、増田長盛
  • 財政は長束正家、京都奉行は前田玄以

が担当していました。ここでは浅野長政と石田三成をご紹介いたします。

 

浅野長政

五奉行筆頭の長政は愛称を長吉といいます。朝鮮の役では渡海しようとする豊臣秀吉に対し一喝して中止させたと言われています。豊臣子飼い出身であるが、行政家としてのキレる男で、手腕をふるい庶民から徳川家康まで慕っていました。

 

石田三成

幼名は佐吉という名でした。国によってバラバラだった検地を全国規模で統一した太閤検地は石田三成の発明とも言われています。豊臣秀吉の死後は反徳川勢力となり関ヶ原の合戦に挑むが敗れ、京都六条河原で処刑されてしまいました。享年41歳です。

 

 

まとめ

  • 豊臣秀吉の家臣は有名な人物が多い
  • 周りに支えられて天下統一を成し遂げた
  • 徳川家康も豊臣秀吉の家臣だった

豊臣秀吉は決して自分の力だけで天下統一を成し遂げたのではありません。とても優秀な家臣がたくさんいたのです。

もともと身分の低かった豊臣秀吉は当然、譜代家臣などはおらず自ら有能な家臣を探し登用していたと云われています。かつての自分が信長に雇われたように。

秀吉の優れた能力として家臣を適材適所の役職に置くことが得意であったとされています。豊臣家臣団の中心は五大老だった訳ですが、徳川家康他4名の力を抑えて豊臣家を繁栄させるために配置された組織図は正解だったのでしょうか、それとも不正解だったのでしょうか。

結果は秀吉の死後、関ヶ原の合戦となり260年以上続いた徳川幕府が誕生しました。豊臣の時代がもっと長く続いていれば、現在の日本の姿はもう少し違っていたのかもしれません。

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