豊臣秀吉は天下人であり、関白であり、太政大臣でもありました。いくつも肩書きを持っていますが、いったいどういう人物だったのでしょうか。
また豊臣秀吉の若い頃は、『人たらし』と呼ばれるほど、戦国の武将たちを惹きつけ魅了する人柄であったようですが‥その反面、極悪人であったという説もあるようです。これはどちらが本当なのでしょう?
今回は豊臣秀吉の性格をもとに、具体的な性格を考察してみたいと思います。
豊臣秀吉の性格はどんなだったの?
性格が悪い?
豊臣秀吉はずっと織田信長に仕えていました。
織田信長も豊臣秀吉には目をかけてくれていたようです。
一応恩義はあるはずなのですが、織田信長が本能寺の変で殺されると、豊臣秀吉は手のひらを返します。織田信長の一族に対して大変厳しい処遇を課すのです。その処遇は切腹や追放です。
また、股肱の臣である脇坂安治への手紙では、大恩ある主君・織田信長を呼び捨てにし、「私(豊臣秀吉)の意思に背く者は、織田信長の時代のように、許されると思い込んでいると処分するぞ」とあります。
豊臣秀吉の意志に背くものが、多数いたということは、豊臣秀吉の織田家に対する仕打ちに不満や憤りを持っていた家臣が多数いたということになります。
また脇坂安治が配置換えを願い出ると、そのようなこと、まかりならんと叱ったのです。
しつこい性格が伺える
そこまでならまだよいのですが、その後、何回も何回も1日おきくらいの頻度で、同様の手紙を出し続けたというしつこさなのです。このエピソードから見て取れるのは、豊臣秀吉はとても腹黒い人物であるかもしれません。
織田信長に従っているふりをして、天下統一を虎視眈々と狙っていたのかもしれません。着実に着実に準備を進めていたのでしょう。そういう意味ではとても頭も良いと考えられます。
また、とても不安も大きかったのだと思います。いつも織田信長の一族に怯えていたのではないでしょうか。自分はいつも狙われているというような気分だったと思います。
天下をとってしまうと、狙われるだけになりますから、天下人が抱える恐怖も同時に尋常ではないものであったのでしょう。
天下統一して性格がガラリと変わる
豊臣秀吉の性格は天下を取る前と取ったあとでは大きく変わってしまったと言われています。それでは、天下統一をする前の豊臣秀吉を見てみましょう。
天下を取る前の豊臣秀吉の性格は、人懐こい、主君や同僚によく尽くす、戦争が嫌い、人たらしであったと言われています。『人たらし』というのは、豊臣秀吉の特技、得意技ともいうべきものでありました。
よくいえば他人から好意を持たれる、悪くいえば人をたらしこむというもので、これで豊臣秀吉は、ずいぶんと味方やファンを作ったようです。
天下をとるあたりから性格が激変
ところが天下を取る前後から、豊臣秀吉の性格は激変します。判断能力が衰え、正当性が失われたり、冷酷残虐となったようです。
判断能力の衰えは、二度にわたる朝鮮への出兵です。豊臣秀吉は日本の統一では満足しなく、外国も占領しようとしています。自分の力を誇示したかったのでしょうか。しかし、この朝鮮への出兵は大失敗し、多くの兵を亡くしてしまいます。
そして、冷酷残虐なところは、甥の秀次に切腹命令を出しています。そして、幼児を含む家族の命を奪ったりもしています。
豊臣秀吉はもともと殺生が大嫌いなはずでした。そもそも戦うことが嫌いなはずです。権力はもともと大好きだったようですが、そんな豊臣秀吉が自分の家族の命や子どもの命まで粗末にすることはとても考えられません。
なぜ性格が激変した?豊臣秀吉に何が‥?
天下を統一して豊臣秀吉に何が起きてしまったのでしょうか。
このような変化の理由はどういうことなのでしょうか。
主に考えられる原因は二つ。
- 元々そのような冷酷な性格を隠し、陽気で人なつこいようにみせかけていた。しかし天下をとったことで、そのような見せかけが必要でなくなった。
- なにかの病気または加齢による。たとえば統合失調症、あるいはアルツハイマーなどの認知症。
判断能力の衰えと、行動の正当性が失われたことからは、加齢による認知症が疑われます。朝鮮出兵はその代表的なものでしょう。
冷酷残虐となったことは、認知症説では説明が難しそうです。こちらはやはり、元々そのような冷酷な性格を隠していたと考えた方がよさそうですね。
こうしてみると、豊臣秀吉の晩年の異常行動は、ひとつの理由からではなく、加齢による認知症や、その他の病気が起因していたのかもしれません。
それにしても、認知症や統合失調症などの病気はともかく、元々の冷酷無惨な性格を、数十年も隠し通したというあたり、豊臣秀吉という人物の複雑さを感じてしまいます。
ここまで徹底してできるというのは一種の才能でもあるかもしれませんが、普通の人間とは思えないところもあります。普通であれば、どこかでボロを出してしまいそうなものです。これを徹底してできる秀吉は何か恐ろしいものを感じてしまいます。
豊臣秀吉の伝説とエピソード
豊臣秀吉の伝説エピソードは多数あります。
草履を暖めていたストーリー
ある寒い日に織田信長が草履を履こうとすると、草履は暖かくなっていました。
短気な織田信長は、
「サル!その方、余の草履に腰掛けていたな!」
と激怒しますと、豊臣秀吉は
「寒い日なので、草履を腹に入れて温めておりました。」
と答えました。
豊臣秀吉の腹には、草履の跡が残されていた、というものです。
秀吉の主君への忠実ぶりは徹底しています。今でいう太鼓もちです。太鼓を持てるだけ持って虎視眈々と権力を狙っていたのでしょう。
捕虜武将に情けをかけたことで、配下に加わりたいと思う武将が増えた
また、ある戦いで豊臣秀吉は、降伏した敵の武将を味方にする、という話をつけ、織田信長の所に連れてきたのですが、疑り深い織田信長は、「心変わりしやすい者のようだから、切腹させろ。」と命じました。
豊臣秀吉は、「降伏した者に腹を切らせては、今後は降伏して味方になる者がいなくなります」と進言したのですが、 織田信長は、それを聞こうともしませんでした。
織田信長の前から下がると、豊臣秀吉はその武将に刀を渡し、「お逃げなさい」と勧めたのです。その武将は、豊臣秀吉の意に大いに感謝し、無事に織田信長のもとから脱出しました。そしてこの一件以来、豊臣秀吉の配下に加わりたい、と思う武将が増えたという話です。
とても優しいと思いきや、秀吉のことですから、これも天下統一の準備だったのかもしれません。こうして秀吉は優秀な部下を集めていったのでしょう。
後々のことですが、豊臣秀吉が、かつての主君・織田信長に対する評価を語ったことがあります。
織田信長を「良将ではない」と評価していた
「織田信長公は勇将ではあるが、良将とはいえない」と語っています。
確かにその通りかもしれません。織田信長は一度気に入らないことがあると絶対に許しはしませんでした。だからこそ、織田信長には皆が恐怖したのだと思います。
そうした分析はさすが秀吉と言えましょう。よく周りをみていたと思います。そう語っており、自分はそうならないようにと歩んでいたはずですが、秀吉も結局は力で部下を統制しようとしてしまいました。
秀吉の機転のきいた一言で、兵士のやる気がみなぎった
織田信長が光秀に討たれた後、いわゆる『中国大返し』という、電撃戦をするのです。これは高松から京都府の山崎まで200キロの道のりを、10日足らずで走破したというものです。
1日20キロ強なら、たいしたことはないじゃないかと、思う人もいるかと思いますが、決してそんなことはありません。当時の道は今のようにアスファルトで舗装されているわけではありません。
道無き道を進まなけれないけないのです。山道はたとえ2キロであってもものすごくしんどいです。それを武器を持ち甲冑を着ながら走るのですから、とんでもない体力であったと想像できます。
この中国大返しの最中に、一人の坊主が現れて、
「今日は運気が悪いので、この城には戻れない。出陣は控えるべきでしょう。」などといいました。当然将兵の士気は下がります。
しかし豊臣秀吉は、
豊臣秀吉:「ここに戻れないという事は良いことではないか。なぜなら天下をとれば、どこにでも城をおけるようになり、ここに戻る必要はないからだ。」
と言ったのです。
それで兵士の士気は一挙に高まり、勇躍山崎の合戦目指して、出発したと言われています。さすがは人たらしの秀吉。自分の苦労をして武将になっているため、どうやったら部下のやる気が出るかは熟知していたのでしょう。
まとめ
- 秀吉はいい人を演じていた可能性が高い
- 実際は冷酷残虐であった
- 権力を欲していた
- 不安と恐怖をものすごく抱えていた
豊臣秀吉は農民から天下統一をしたため、サラリーマンの目標ともなるときがあります。しかし、その努力は並大抵のものではなさそうです。
権力に媚びるといっても、通常の人であれば、影での行動にボロがでてしまって、結局はバレてしまいます。秀吉が一つもバレることがありませんでした。
なかなかそこまで徹底できるものではありません。演じることの良し悪しをいうと秀吉は悪い人になってしまいます。確かに私も悪い人だとも思いますが、その徹底ぶりは見習うべきところがあります。さすが天下人だと頭が下がりますね。
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