豊臣秀吉と言えば、墨俣一夜城の建築伝説や備中高松城での水攻めなど「城」に関するエピソードが多い事でも知られている戦国武将です。
秀吉と関わりのある城は、再建されたものや跡地を含めて今でも日本全国でその姿を確認する事が出来る…のですが、多すぎて訳がわからなくなる事も、少なからずあると思います。
豊臣秀吉にゆかりのある城をピックアップしていきます。
豊臣秀吉で有名な城
1,墨俣城
墨俣一夜城とも呼ばれ、秀吉が出世する大きなきっかけになった城として有名です。
本当のところは、豊臣秀吉が一夜にして城を建築したという話は伝説のようです。この時期、秀吉が木曽川沿いで水運業を営んでいたは蜂須賀小六らを配下にした事は確認できるています。
そのため、何かしらの働きをしたことは事実であると考えられます。こうした秀吉に関する働きが人々に伝わり広まったのかもしれません。秀吉が墨俣城で行った働きは、現在も一夜城として伝説になっています。
2,長浜城
長浜城は、豊臣秀吉が浅井長政の領地の一部を与えられて際に建築していたことでとても有名な城です。秀吉は、この地で善政を行ったとされています。また、石田三成などの近江出身者を家臣として迎え入れるなどして、長浜城は天下統一のための基礎となりました。
後に、秀吉の家臣である山内一豊が入城しましたが、大坂の陣の後で取り壊され、その一部の具材は彦根城の建築の際に利用されたと言われています。現在では、復元された天守があり、地元である長浜市によって運営されています。
3,大阪城
歴史好きなら誰もが知っている大阪城です。教科書にももちろんでてくるので、一度は名前を聞いたことがあるお城ではないでしょうか。
大阪城は1583年に建築が開始され、その2年後の1585年に完成しました。豊臣秀吉の本拠地となり、城下町は大いに賑わったと伝えられています。豊臣秀吉の死後は、江戸幕府の直轄となり、西日本の拠点として大いに発展していきました。
度々火災などで、破壊、損害を受けますが、その度に改修をし、現在もきれなまま残っています。
4,聚楽第(じゅらくてい)
4つ目は聚楽第。
「じゅらくてい」とも「じゅらくだい」とも呼ばれている城で、秀吉が関白になった際に政務を行う場所が必要という事で1587年に完成したお城です。
秀吉が関白を退いた後は、その後を継いだ豊臣秀次の居城となりましたが、1595年に秀次が切腹すると、聚楽第は秀吉によって徹底的に壊されてしまいました。
お城が完成してからわずか8年で取り壊された城の詳細は、現在でも不明な点が多い謎多き城となっています。
5,伏見城
秀吉が関白を退いたあと、秀吉の居住用住まいとして建てられました。
1592年に建築が始まり、その4年後に完成しています。秀吉が亡くなった城としても有名ですね。
関ヶ原の戦いでは、徳川家康の家臣である、鳥居元忠が1800人の兵力で伏見城を死ぬ気で守り、西軍の足止めに成功しました。関ヶ原の戦いから2年後、徳川家康によって再び建築されて、江戸幕府のとても重要な拠点として活躍しました。
1623年に伏見城は取り壊されてしまいます。1964年には再び建てられて、今では伏見桃山城運動公園として現存しています。
秀吉が城攻めした城
豊臣秀吉で城といえば、城攻めです。秀吉は城攻めの達人でもありました。
秀吉が城攻めした場所をご紹介させていただきます。
1、三木城
まずはじめは三木城です。
三木城は播磨の別所氏の城として有名な城で、1578年〜80年の2年にわたって秀吉の城攻めを受ける事になりました。この時、秀吉は苛烈な兵糧攻めを行い、城内に一切食料が届かない状態にしたと伝えられています。
落城後は秀吉の城となり、関ヶ原の戦いの戦い後は姫路城主を務める池田輝政の所有となったのですが、1615年に一国一城令によって取り壊される事となりました。
現在では城跡や模擬の城壁が残っています。
2,鳥取城
2つ目は鳥取城。この城も秀吉の城攻めを受けた事で有名です。
三木城の落城までには2年の歳月を要したのですが、この鳥取城はわずか4ヶ月で落城してしまいました。この4ヶ月の間で、城内では餓死者が出たり、人肉まで求める物が現れたりとものすごく悲惨な状況であったと伝えられています。
その後、秀吉の家臣である宮部氏が入り、関ヶ原の戦い後は池田氏の居城として明治維新を迎えます。天守は既に取り壊されており、その台が現在でも残っています。
3,備中高松城
秀吉によって水攻めされたお城としてとても有名なのが備中高松城。水攻めを提案したのが有名な軍師である黒田官兵衛です。
備中高松城の城主である清水宗治はとても有名な人物です。現在でも城跡には清水宗治を祀る碑文や首塚が残されています。
秀吉との戦いのあとは、宇喜多家の領地となったようです。しかし、関ヶ原の戦いで取り壊されてしまいました。現在では、城の面影はありません。ただ、吉が水攻めの際に築いた堤防など工事の痕跡が残されているようです。
4,小田原城と石垣山城
秀吉が天下統一を実現する際に攻めた小田原城と、攻城戦の際に築いた石垣山城はセットで説明した方が分かりやすいのでセットでご説明します。
小田原城と言えば、北条家の居城として、武田信玄や上杉謙信でも攻め落とせなかった事で知られる名城です。この城を攻め落とすため、秀吉は20万以上の兵力を用いて攻略に当たりました。とても大きな大軍です。
その際に築いたのが石垣山城で、3万人以上の人員を動員しわずか80日間で構築されたと伝えられています。その際、秀吉はこの城を1日で築いたという演出を行い、北条家の戦意を喪失させたと伝わっています。このため、石垣山城は「石垣山一夜城」と呼ばれる事もあります。
その後、小田原城は家康に与えられ、家臣である大久保氏が入城。2度の大地震や明治政府により城の大部分が取り壊されており、現在ではその復元を目指そうとする動きがあります。
また、石垣山城は国の史跡となっており、歴史公園として整備されています。
その他豊臣秀吉ゆかりの城
最後に、これら9つ以外で豊臣秀吉ゆかりの城として有名な姫路城をご紹介します。
姫路城
姫路城と言えば、大河ドラマの主人公にもなった黒田官兵衛の居城として有名ですが、豊臣秀吉が中国征伐を行う際、黒田家が秀吉に譲った城としても有名です。
近畿と中国地方を結ぶ要地として、戦国時代では織田家と毛利家が激戦を繰り広げたほか、江戸時代になると徳川家に近い譜代大名が度々城主が入れ替わっている事も、この城が重要な拠点であった事が伺えます。
その一方で、姫路城下は城が建てられて以降、一度も戦に巻き込まれていない事でも有名です。第二次世界大戦に焼夷弾が天守に直撃したものの被害はそこまで大きくなかった事から「不戦の城」と呼ばれている事でも承知いたしました。荒れています。
また、姫路城は国宝や重要文化財として有名で、1993年には日本初の世界遺産として登録された事でも知られています。現在では様々なイベントが開かれたり、あるいは時代劇の撮影が行われるなど、多くの人に愛されている日本が誇るべき城の1つと言えるでしょう。
まとめ
- 秀吉は多くの城を移り住んできた
- 一番長く住んだのは大阪城
- 城を建てるのも得意だが、攻めるのも大得意であった
秀吉は農民から出世している人間なので、いろいろな城を渡り歩いています。さすがの天下人は違います。そして、いろいろな城に住んだことがあるからこそ、城攻めも得意だったのかもしれません。
いろいろな城を経験したからこそ、城の弱点も熟知していたのかもしれませんね。
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