上杉謙信といえば戦いでは負け知らず、戦国時代最強の武将と言われています。
また、謙信の人柄や義を重んじる人間性も高く評価され、味方だけでなく敵からも大いに尊敬される存在でした。
私も大好きな戦国武将の一人です。
そんな上杉謙信は数多くの名言を残しています。
その素晴らしい名言は後世に語り継がれ、今の時代にも通じるものが数多くあります。
歴史マニアの私が、その名言の数々を紹介しその意味について解説していきたいと思います!
謙信の武士道とその人柄がわかる名言
様々な戦いを繰り広げてきた謙信。
49年という生涯の中でどんな名言を残していったのでしょうか?
名言の数々から厳選したものを紹介していきたいと思います!
我を毘沙門天と思え。
上杉謙信は自らを見沙門天の化身だと思っていた。
- 仏教の宇宙観では、世界の中心に須弥山があり、その宮殿には帝釈天がおり、四方を守る四天王の一つである毘沙門天は、北を守備する武神であった。
- 『北越軍記』によれば、彼は「我が命のある限り、国家を裏切る者を平らげ、諸国を一つに帰して、貧困に陥った人々を安住ならしめる他に希望はない。もし謙信の運が弱く、この志が空しいものならば、速やかに病死を賜わるべし」と毘沙門天に祈った。
- 謙信はこの願いを成就させるため、烏魚の肉を断り、また女性と交わることを自ら禁じた。
- 恋慕の情を断つだけでなく、侍女さえもそばに近づけなかった。
- 謙信は女だったという小説などがあるが、その出所はこんなところにあるのかもしれない。
- いずれにしろ、人々は謙信を武神そのものと思い、本人自身も毘沙門天と思う。
- 彼は出撃前に毘沙門堂に寵り、座禅膜想し、「毘」の一字を旗印に掲げて出撃した。
- 出典:我を毘沙門天と思え
- ここから分かる上杉謙信の人柄や性格は、とにかく仏教を信じていて、女遊びは決してしなかったということが分かります。
- 侍女というのは、簡単に言えばお金持ちに仕えてお世話をしてくれる人でありますが、侍女すら近づけなかったお言うことは、上杉謙信は毘沙門天への誓いを果たすために、自分を鬼にしてまで女性を避けていたことが分かります。
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生を必するものは死し、死を必するものは生く。
生きたいと思って戦場に行く者は死に、死の覚悟を持って戦う者は生きて帰ってくる。という意味です。
謙信は常に戦いに命を懸けていたことが分かります。
戦国時代はサバイバルですから、覚悟が無ければやられてしまいます。
逆にその覚悟があれば、勝ち続けられるということです。
謙信の勝負強さはここにあったのかもしれません。
今の時代も何事も覚悟を持って進めば、いい結果が現れるということですね!
何だかとても励みになります。
大事なのは義理の二字である。死ぬべきに当たってその死に顧みず、生きる道においてその命を全うし、主人に先立つこれこそ武士の本意である。
やるべきことちゃんとやる。自分にうそをつかない。正しいことをやり続ける。という意味です。
謙信は義理人情に熱い人で、「義」をとても大切にしていました。
武士たる者、生きている間は義を持って相手と接していくのが当たり前だということです。
確かにそれは当たり前の事なのかもしれませんが、裏切りがたくさんあったであろうこの戦国時代に、「義」を大切に持ち続けた武将は謙信だけだったのではないでしょうか。
謙信の真っ直ぐな人柄が、この言葉に現れているような気がします。
だからこそ家臣から信用され、付いてくる者も多かったんでしょうね。
自分をしっかり持った素晴らしい人間性ですね。
なかなか真似できないです。
信玄の兵法にのちの勝ちを大切にするのは、国を多くとりたいという気持ちからである。自分は国をとる考えはなく、のちの勝ちも考えない。さしあたっての一戦にかつことを心掛けている。
武田信玄が病死し、嫡男の武田勝頼が武田家を継ぎます。
その時勝頼はまだ幼かったため、上杉の家臣たちは、「武田を今攻めれば、すぐに武田を滅ぼせる!」と謙信に言ったそうです。
その時に帰ってきた言葉がこれです。
謙信は国をとりたいという気持ちはなかったようです。
目の前の一戦一戦に勝つことだけを考えていて、その後のことはその後考えればいいと思っていたようです。
武田信玄との友情もあったそうですし、卑劣な戦いを好まず、「義」を大切にした考えといえるでしょう。
友情に熱い、男の中の男ですね!
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人の上に立つ対象となるべき人間の一言は、深き思慮をもってなすべきだ。軽率なことを言ってはならぬ。
人の上に立つ者の一言は、深い考えも持って発言しなければいけない。軽率な発言を言ってはいけない。という意味です。
これは今の時代にも大いに関係ありますね。
年上、上司の言葉で下の考えも変わってくると言えます。
謙信は家臣に対しても、「義」を持って接していたのでしょう。
家臣に対して厳しかった謙信ですが、何より自分に対して一番厳しかったようです。
自分の武士道について、常に考えを深めていたんでしょうね。
すごく尊敬します。
謙信が今の時代にいたら、ぜひ上司になってもらいたいものです。
武士は馬を我が足と思い、弓槍を左右の手と定め、敵を撃つ刃は己の心と考え、常に武道をを嗜むことが、本意の核心である。
これも先ほどの名言とほぼ同じ意味と捉えられます。
武士道とは、常に武士道を考えていることである。
自分と常に対話をしていた謙信だったのでしょう。
本当に武士道に一直線だったんですね。
→ 上杉謙信の性格は?最強だったと言われる理由やエピソードも!
戦場の働きは武士として当然のことだ。戦場の働きだけで知行を多く与え、人の長としてはならない。
戦場で勝つことは当たり前。戦場の勝ちだけで人を判断してはいけない。それだけで褒美を与えてもいけないし、人の上に立たせるようなこともしてはいけない。という意味です。
戦一筋であった謙信。それだけでなく、家臣たちの人柄もよく見抜いていたといえます。
このような人を見抜く力がある者が、家臣や国をまとめる力を持った上に立つ者になるのでしょうね。
謙信、恐るべし。
人の落ち目を見て攻め取るは、本意ならぬことなり。
これは武田勝頼が長篠の戦で敗北を期した時、「武田の領地に攻め込もう!」と上杉の家臣が謙信に言ったときに返ってきた言葉です。
今攻めこめば確実に武田を滅ぼせる。
しかし、謙信はそれは自分の「義」に反することだと思っていました。
信玄が亡くなった後、武田軍と戦うことは1度もなかったそうです。
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数々の名言を紹介してきましたが、どれもこれも「義」を大切にする謙信の人柄が大いに現れていました。
家臣、そして武田との友情も垣間見え、本当に素晴らしい武将だったと言えます。
謙信が味方だけでなく、敵にも尊敬され、後世にもその素晴らしさが語り継がれた理由がよくわかります。
まとめ
最後に、上杉謙信の辞世の句を紹介したいと思います。
正確には謙信は突然亡くなったので、辞世の句はないのですが晩年に読まれたこの2つの句が辞世の句として語り継がれています。
謙信は和歌を詠むのが得意で、源氏物語を好んで読んだり琵琶を弾く趣味などもあったそうです。意外と文化人の要素が多かったようですね。
「四十九年一睡夢 一期栄華一杯酒」
49年の我が生涯は一睡の夢に過ぎなかった。この世の栄華は一杯の酒に等しい。という意味です。
自分の生涯の短さを夢や一杯の酒に例えています。
今を一生懸命に生きたければそれは一瞬で、栄華も築いたけどそれも一瞬だった。
すごく儚い句ですね。
こんなに家臣や国にも恵まれた人生でも、何か成し遂げられないものでもあったのでしょうか?
それは謙信にしかわかりません。
「極楽も地獄も先は有明の 月の心にかかる雲なし」
あの世で自分はどうなるか分からないけれど、私の心は雲のかかっていない月のようで、とても晴れやかである。という意味です。
これは私の解釈ですが、「雲なし=苦もなし」という意味で、極楽・地獄どちらに行っても苦しみや後悔はまったくない、と謙信が言っているのではないかと思いました。
自分の「議」を信じ、今を一生懸命に生きた謙信だからこそ、言えた言葉だったのではないかと思います。
真っすぐに今を生きること、今の時代にも大切な教訓ですね。
今回は上杉謙信の名言について解説していきました!