戦国時代には珍しい「義」を重んじる武将だったそうです。
戦国最強の武将と後世に語り継がれている上杉謙信。
そんな上杉謙信はいったいどんな性格だったのでしょう?素顔も気になるところですよね。
また、謙信が戦国最強の武将だったと言われる理由として、戦においてほぼ負けたことがない強者であったことが挙げられます。
どうして謙信はこんなに戦に強かったのでしょう?
歴史マニアの私が謙信の素顔と、最強だったと言われる理由について、謙信の戦のエピソードとともに解説していきたいと思います!
謙信の性格とその素顔に迫る
信心深い性格で武将というよりも僧、ないし宗教家の一面が強かったのではないかと思います。謙信は幼き頃、林泉寺というお寺に預けられていました。
それもそのはず、毘沙門天を崇拝しすぎるあまり一生独身、妻を娶らず侍女さえも近づけさせなかったといいます。
これにはいろんな説がありますが、独身であったのは事実。
いかに自分、戦と向き合い続ける真っ直ぐな性格であったかは間違いないのだと思います。
また、謙信は琵琶を弾いたりするなど文化人としての一面もありました。
源氏物語を好んで読み、和歌を詠むのも得意だったといいます。
そんな謙信は数多くの名言を残しています。
名言を見てみると、謙信の性格が良く分かるので少し解説していきたいと思います!
【生を必するものは死し、死を必するものは生く。】
生きたいと思って戦場に行く者は死に、死の覚悟を持って戦う者は生きて帰ってくる。という意味です。
謙信は常に戦いに命を懸けていた人でした。
戦国時代はサバイバルですから、戦う覚悟が無ければやられてしまいます。
逆にその覚悟があれば、勝ち続けられるということです。
謙信の心理面の強さが伺えます。
【大事なのは義理の二字である。死ぬべきに当たってその死に顧みず、生きる道においてその命を全うし、主人に先立つこれこそ武士の本意である。】
やるべきことちゃんとやる。自分にうそをつかない。正しいことをやり続ける。という意味です。
謙信は義理人情に熱く、「義」をとても大切にしていました。
武士たる者、生きている間は義を持って相手と接していくのが当たり前だということです。
確かにそれは当たり前の事なのかもしれませんが、裏切りがたくさんあったであろうこの戦国時代に、「義」を大切に持ち続けた武将は謙信だけだったのではないでしょうか。
謙信の真っ直ぐな人柄が、この言葉に現れているような気がします。
だからこそ家臣から信用され、付いてくる者も多かったんでしょうね。
自分をしっかり持った素晴らしい人間性ですね。
なかなか真似できないです。
【信玄の兵法にのちの勝ちを大切にするのは、国を多くとりたいという気持ちからである。自分は国をとる考えはなく、のちの勝ちも考えない。さしあたっての一戦にかつことを心掛けている。】
武田信玄が病死し、嫡男である武田勝頼が武田家を継ぎます。
その時勝頼はまだ幼かったため、上杉の家臣たちは、「武田を今攻めれば、すぐに武田を滅ぼせる!」と謙信に言ったそうです。
その時に帰ってきた言葉がこれです。
謙信は国をとりたいという気持ちはなかったようです。
目の前の一戦一戦に勝つことだけを考えていて、その後のことはその後考えればいいと思っていたようです。
武田信玄との友情もあったそうですし、卑劣な戦いを好まず、「義」を大切にした考えといえるでしょう。
友情に熱い、男の中の男ですね!
【人の上に立つ対象となるべき人間の一言は、深き思慮をもってなすべきだ。軽率なことを言ってはならぬ。】
人の上に立つ者の一言は、深い考えも持って発言しなければいけない。軽率な発言を言ってはいけない。という意味です。
これは今の時代にも大いに関係ありますね。
年上、上司の言葉で下の考えも変わってくると言えます。
謙信は家臣に対しても、「義」を持って接していたのでしょう。
家臣に対して厳しかった謙信ですが、何より自分に対して一番厳しかったようです。
自分の武士道について、常に考えを深めていたんでしょうね。
【戦場の働きは武士として当然のことだ。戦場の働きだけで知行を多く与え、人の長としてはならない。】
戦場で勝つことは当たり前。戦場の勝ちだけで人を判断してはいけない。それだけで褒美を与えてもいけないし、人の上に立たせるようなこともしてはいけない。という意味です。
戦一筋であった謙信。それだけでなく、家臣たちの人柄もよく見抜いていたといえます。
このような人を見抜く力がある者が、家臣や国をまとめる力を持った上に立つ者になるのでしょうね。
謙信、恐るべし。
【人の落ち目を見て攻め取るは、本意ならぬことなり。】
これは武田勝頼が長篠の戦で敗北を期した時、「武田の領地に攻め込もう!」と上杉の家臣が謙信に言ったときに返ってきた言葉です。
今攻めこめば確実に武田を滅ぼせる。
しかし、謙信はそれは自分の「義」に反することだと思っていました。
信玄が亡くなった後、武田軍と戦うことは1度もなかったそうです。
数々の名言を紹介してきましたが、どれもこれも「義」を大切にする謙信の性格が大いに現れていました。
家臣、そして武田との友情も垣間見え、本当に素晴らしい武将だったのでしょう。
謙信は駆け引き上手な最強の武将だった!
謙信は1530年越後の上杉家に仕える守護代・長尾為景の4男として産まれます。
また、寅年に産まれたことから幼名を「虎千代」と言ったそうです。
いかにも強そうな名前ですね。
虎千代6歳の時に父・為景は隠居、兄の晴景が家督を継ぎます。
虎千代は林泉寺というお寺に預けられ、教養を学びます。その中で、兵学に特に興味を持ち武将としての基礎を築きます。
一方、兄の晴景は国をまとめられる器量を持ち合わせておらず、そんなところに越後の豪族たちが謀反を起こしてしまいます。
そこに元服した虎千代改め景虎(後の謙信)が、その謀反を見事におさめて見せます。
結果兄・晴景は隠居し、景虎は18歳の若さで長尾家の家督を継ぐのです。
謙信は相手の意表をついて電光石火のごとく攻めること、刀や槍を使った接近戦で相手を倒すことを得意としていました。
特に謙信の兵には槍兵が多かったのですが、槍兵のデメリットは遠くから攻撃ができないこと。
そのため、常に闘争心を持ち続けないといけない緊張するポジションでした。
兵士の心理面がかなり影響しそうですよね…
謙信は兵士の緊張や不安を解くため、自ら先頭に立ち敵陣に切り込んでいました。
兵士たちはどんなに心強かったことでしょう。
しかし、その逆に「これは勝てない」という戦に対しては、潔く撤退することもあったそうです。
押すだけでなく引くこともできる駆け引き上手なところが、謙信を最強の武将と位置付けることとなったのでしょう。
その後も様々な戦いに出向くのですが、その中で負けた戦はたったの2回だけ。
1566年の「臼井城の戦い」と、1561年「生野山の戦い」です。
この戦以外では明確な敗北はしていないということなのですが、新事実が判明。
実は引き分けの戦が25戦もあったのです。
あの有名な川中島の戦い。1回目は謙信の勝利。
その後5回までは引き分けに終わっています。
→ 川中島の戦いの場所・戦の結果・勝者は?一騎打ちは本当にあったの!?
謙信は国をとりたいというスタイルではなく、その「義」を重んじた性格から援軍として戦うことが多かったのです。
ということは、謙信が本気で戦に臨んだらもっとすごいことになるということ。
どっちにしろ最強の武将であることは間違いないということが分かりました。
謙信が生き続けていたら、織田や豊臣や徳川とどんな戦いを繰り広げていたんでしょうか。
まとめ
- 上杉謙信は、宗教家の面や文化人としての要素も持ち合わせた「義」を重んじる性格の武将だった。
- また、果敢に相手に立ち向かっていく強さを持ち、戦いの去り際も良く分かる戦上手の最強の武将だった。
というのが今回のまとめです。
この時代には珍しいタイプの武将だった上杉謙信。
しかし、その真っ直ぐで人想いの性格、戦上手な面はとても尊敬できますね。
今回は謙信の素顔とその強さの秘密に迫りました!