「義」を重んじた戦国時代の素晴らしい武将、上杉謙信。
戦いでは負け知らずで、戦国最強の武将ともいわれていました。
そんな上杉謙信は波乱万丈な人生で、49歳の若さで亡くなっています。
懸命に生きた謙信の最後は、いったいどんなものだったのでしょうか?
今回は上杉謙信の人生を年表で振り返り、その最後について歴史マニアの私が解説していきたいと思います!
上杉謙信の歴史を年表で振り返る
上杉謙信の生涯とは、どのようなものだったのでしょうか?
その人生を年表で振り返っていきたいと思います!
1530年 |
越後守護代・長尾為景の四男として生まれる。寅年に生まれたことから、幼名を「虎千代」と名乗る。 ※最初は長尾家の子供であり、まだ上杉ではありません。 |
1536年 |
四男として生まれた謙信は父から疎まれており、7歳で春日山の麓にある林泉寺に預けられる。 ここで兵学に興味を持ち、武将としての基礎を学ぶ。 この年、父・為景が死去。 |
1543年 |
父の跡を継いだ兄・長尾春景の計らいでお寺から出て俗世に戻ってくる。 その後、栃尾城城主となる。 この年、名を改め長尾景虎となる。 |
1544年 |
元服し、15歳で初陣を飾る。 上杉家家臣・黒田秀忠が謀反を起こすが、それを討伐する。 初陣にして才覚を発揮し、家臣に一目置かれる存在となる。 |
1545年 |
川越城の合戦 関東地方の北条氏康と上杉憲政率いる連合軍が戦う。 謙信は後に、この上杉憲政から上杉家の家督を相続する。 |
1548年 |
一方の兄・晴景は、家臣をまとめられる力がなく、景虎を擁立する者が出てくるようになる。 そして、越後守護・上杉定実の仲介で、兄から家督を譲り受けることとなる。 19歳で長尾家の当主となり、越後守護代に。春日山城に入城する。 ※父から疎まれていた謙信も、己の才覚によって武将の道へと進んでいくようになるんですね。 |
1552年 |
関東管領の上杉憲政が北条氏康に攻められ、越後に逃げてくる。 謙信は上杉憲政をかくまう。 |
1553年 |
第一回・川中島の戦い 信濃・川中島で上杉謙信と武田信玄がついに対決! |
1554年 |
武田氏・今川氏・北条氏の間で三国同盟を結託。 この年、家臣の北条高広が謀反を起こすが、翌年には降伏させ、家臣として迎え入れる。 ※敵をも味方にする謙信。このようなところに「義」を感じますね。 |
1555年 |
第二回・川中島の戦い ここから信玄とは、引き分けの戦がずっと続く。 |
1557年 |
第三回・川中島の戦い |
1559年 |
将軍・足利義輝の要請で上洛。 将軍とは仲が良かったとか。良好な関係を築く謙信。 |
1560年 |
越中の神保長職に攻められた椎名康胤は、謙信に助け舟を求める。 謙信はこれに応じ越中へ侵攻し、神保氏の居城である富山城を落とす。 この年、桶狭間の戦いが起こり今川義元が死去。 謙信を脅かす三国同盟のひとつである、今川氏が崩れたことを機に上野・武蔵へと侵攻し、北条氏の支城を次々と落としていく。 |
1561年 |
小田原城の戦い 北条氏康の居城である小田原城を攻めるも落城できず、兵を引く。
第四回・川中島の戦い この戦が1番熱戦となったようです! この年、上杉憲政から家督と関東管領の職を譲り受け、名を上杉政虎と改める。 その後、将軍・足利義輝から一字もらい、上杉輝虎と名を改める。 |
1564年 |
第五回・川中島の戦い これが武田信玄と上杉謙信の最後の戦。結局、はっきりと勝敗はつかなかった。 |
1567年 |
武田信玄が同盟国の今川氏を裏切る。 そのため、怒った今川氏真から経済制裁として甲斐への塩の輸出を禁止されてしまう。 それを知った謙信は、信玄に塩を送る。 ※あの有名な諺が生まれました! |
1568年 |
越中の一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じたため、これを討伐しにいくが決着できず。 同じ頃、家臣の本庄繁長が武田信玄と通じ、越後で謀反を起こすが無事にこれを鎮圧する。 ※家臣の謀反が本当に多いですね… |
1570年 |
三国人同盟を無視した武田信玄を敵とみなした北条氏康は、謙信と同盟を結ぶ。 北条氏康の七男・氏秀を養子に迎え入れる。彼の名は上杉景虎となる。 この後ようやく『謙信』と名乗る。 |
1571年 |
北条氏康が死去。 跡を継いだ北条氏政に同盟を破棄されてしまい、北条とはまた敵対関係に。 |
1572年 |
織田信長から同盟の申し入れあり、これを受け入れる。 |
1573年 |
越中の一向一揆討伐 椎名康胤がまた兵を起こし、上杉の支城・富山城を奪うが、無事にこれを奪還する。 さらにこの年、武田信玄が死去。※謙信は大変悲しんだそうです。 謙信はさらに越中を侵攻。次々に城を落とし、越中のほとんどを支配下にする。 |
1574年 |
関東に出陣 北条氏の支城を落としていくが、北条氏は痛くも痒くもなかったそうな。 |
1576年 |
打倒織田信長を掲げる将軍・足利義昭の要請により、武田氏・北条氏との和睦に応じる。 将軍・足利義昭から上洛を求められる。
七尾城の戦い 上洛を急ぐ謙信は能登へ侵攻。 重要拠点となる能登の七尾城を攻めるが、難攻不落であり落とせなかった。 ※数多くの戦で勝利している謙信。勝てなかった戦はたったの2つだけ。そのうちのひとつです。 |
1577年 |
七尾城にもう一度攻め入る。 調略により、敵側の遊佐氏を上杉方につけ反乱を起こさせる。 七尾城は落城、能登を傘元に置くことに成功する。 手取り川の戦い 七尾城の救援に来た織田家家臣・柴田勝家の軍と戦い、見事勝利! |
1578年 |
上杉謙信、越後の春日山城内の厠で倒れ、急死。 享年49歳の短い生涯を終える。 |
上杉謙信の死因は?
上杉謙信は越後の春日山城内の厠(かわや)で倒れ、49歳の短い人生を終えます。
果たしてその死因はなんだったのでしょうか?
謙信の死因は「脳卒中」だった!
謙信の死因は脳卒中と言われています。暗殺とかではないんですね。
この死因には根拠となる裏付けがあります。
上杉謙信は大のお酒好きで有名でした。
そして、お酒を飲むときにかかせないものといえば?
「おつまみ」ですよね。
上杉謙信のおつまみはなんと、梅干しだったそうです!
また、味噌や塩をそのまま舐めていたりしたこともあったそうな。
昔のおつまみって料理ではなかったんですね!
どのくらいの量のお酒を飲んでいたかはわからないのですが、昔の武将は大変な酒豪であったと聞きます。
その調子でおつまみも食べていたら、塩分の摂りすぎで「高血圧」になっていたことは間違いないありません。
戦いでのストレスもあったでしょうし、頭に血が上ってしまうのも容易に考えられます。
さらに越後の寒い冬のトイレは血管にとても負担をかけます。
脳に一気に血が上ってもおかしくありません。
戦国最強の武将の最後が、病死だったなんてなんだかあっけないですね。
謙信の急死により、跡継ぎもあやふやだった上杉家はこの後跡継ぎ問題で大いにもめます。
なんだか大変な最後となってしまったワケですね…
謙信は「大虫」で死んだ!?
謙信の死因を調べてみると、もうひとつ有力な説がありました。
それが「大虫」です。
「当代記」という歴史資料に、「謙信は大虫で49歳で亡くなる」と書かれています。
「大虫」とは当時では婦人病を指す言葉で、近年話題になっている「謙信女性説」が本当ならこの話はあり得る話かもしれません。
少し面白い話だったので、気になる方はぜひ調べてみると面白いかもしれません。
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まとめ
- 上杉謙信は49歳の生涯をほぼ戦で費やし、懸命に生き続けた。
- 謙信の死因は、戦でのストレスや大のお酒好きであったことから、「脳卒中」であったことが有力。
戦いで潔く散って行ったのかと思ったら、戦国最強の武将はなんともあっけない最後を迎えていました。
しかも最期の場所は厠(トイレ)^^;
まだまだ知らない意外な歴史ってたくさんありそうですね。
今回は上杉謙信の死因と、その生涯を年表で振り返りました!