戦国時代、今川氏との同盟を破った武田信玄は今川氏から「塩止め」をくらいます。「敵に塩を送る」という有名なことわざがあります。
塩不足になった武田に対し、上杉謙信だけは塩を送り続けたそうです。
こうして武田家や甲斐・信濃の民たちは、塩不足から窮地を救われました。
この素晴らしいエピソードから、敵の弱みにつけこまず苦しんでいる時には相手を助けるという意味の「敵に塩を送る」ということわざが今の世に浸透していきました。
私も大好きなことわざの一つです。
しかし、このエピソードは素晴らしい美談ではなく、上杉謙信が武田に対し塩を送り続けたのにはある「理由」がありました。
今回はその理由やこのエピソードの真相を解明していきたいと思います!
塩不足に苦しむ武田家と甲斐・信濃の民
1560年 桶狭間の戦いで今川義元は織田信長に討たれ、今川家の家督を氏真が相続することになります。
氏真が今川家を継ぐと、今川家はみるみる衰退していってしまいます。
その姿を見た武田信玄は今川家を裏切り、武田・北条・今川家による同盟を放棄し、今川領の駿河を攻め、自分の土地にしてしまいます。
戦国時代ですから裏切りは十八番。
これに怒った今川氏真は武田信玄に対し「塩止め」を実行します。
武田の領地である甲斐・信濃は海がない内陸地のため、自分の領地では塩が取れません。
そのため、武田家は塩を駿河湾からの輸入(つまり今川氏から塩を買っていた)で賄っていました。
氏真は武田に塩を売らないよう駿河の塩商人たちに命令します。
また縁戚関係であった北条氏にも手を回し、塩を売らないよう働きかけたのです。
「塩止め」を受けた武田家および甲斐・信濃の民たちは塩不足に苦しみます。
塩は人間の生命維持には欠かせないものです。
それだけでなく、食料の長期保存にも役立ちます。
今でこそ塩は当たり前のように存在していますが、昔はそうではありませんでした。
昔の日本では沿岸部に塩田を開き、塩を作っていました。
沿岸部では塩の確保ができましたが、内陸地ではもちろん海もなく岩塩もほとんど存在していなかったため、塩の確保はこの時代の人たちには大変なことでした。
武田家は戦いではなく、こんなところで窮地に立たされてしまうのです。
塩がなければ食べ物はどんどん腐っていき、食べるものがなくなった甲斐・信濃の民たちは餓死してしまっていたでしょう。
塩不足はそこまでに深刻な問題だったのです。
武田は頭を悩ませます。
そんなところに救世主が現れます。
川中島で戦ったあの上杉謙信です。
謙信は「我は兵を以て戦ひを決せん。塩を以て敵を屈せしむることをせじ」と言い 、氏真の行いを卑怯とし、越後でとれた塩を武田に送ったのです。
こうして武田家は塩不足という窮地から救われ、上杉謙信の「義」を重んじる人間性と「敵に塩を送る」ということわざが広まりました。
これが世間一般に浸透している逸話ですが、実はそれだけが真実ではないのです。
なぜ上杉謙信は武田家に塩を送り続けたのか?
川中島の戦いを始め、数々の戦いで勝利をおさめています。上杉謙信は戦国最強の武将と言われ、戦いでは負け知らず。
しかし謙信は武勇で名を馳せただけでなく、商人としての優れた才能も持ち合わせていたのです。
謙信は死ぬまでに2万両以上の莫大な財産を築いていたと言われます。
どうやってその莫大な財産を築いたのでしょう?
謙信の領地である越後は日本海に面しています。
魚もたくさん取れるでしょうし、何より塩もたくさんとれます。
また謙信はアオサという糸の元になる植物の栽培に成功し、越後上布(上質の麻糸で織った軽くて薄い織物)という物を京をはじめ、全国で売っていました。
さらに、直江津・寺泊・柏崎などの港で「船道前」という関税を徴収していました。
商売上手な上に、関税という制度もきっちり利用してお金を稼ぐ。
謙信はやり手の商売人だったんですね。
それもそのはず、戦にはお金がかかります。
その軍資金を得るため、商業を成功させることも武将として大切な才能だったんですね。
それは謙信だけでなく、有名な武将たちを見てもわかります。
織田信長は楽市・楽座を作り、豊臣秀吉は検地をして百姓たちにしっかり年貢を納めさせていましたね。徳川の豆狸もやり手でした。
つまり謙信は武田のピンチを救ったというよりも、ビジネスチャンスとして高い値でたくさん塩を売ることができる!と思い、武田に塩を送り続けたというわけですね。
武勇だけでなく、商売人として恐るべき才能の持ち主であった上杉謙信なのでした。
涙、涙の友情話だけじゃなかったのはショックでしたが、ある意味謙信をさらに尊敬できました!
しかし、どうして「敵に塩を送る」というエピソードが美談になったのでしょうか?
これにもきちんとした理由がありました。
武田信玄は謙信にあるものを送っていた?
信玄は塩を送り続けてくれた事に本当に感謝していました。
それは謙信のビジネスチャンスだったとはいえ、武田家や甲斐・信濃の民たちは塩不足という窮地から救われたのです。
感謝の印として、信玄は謙信に福岡一文字の在銘太刀「弘口」を送っています。
これは通称「塩止めの太刀」と呼ばれています。
友情の太刀とも言えますね。
信玄と謙信は永遠のライバル関係にあったと言われていますが、お互いを尊敬し合っていました。
信玄は亡くなる最後の時、息子・勝頼に「何かあったら越後の謙信を頼れ」と言ったそうです。
謙信を尊敬していなかったらそんなこと言いませんよね。頼りにされていた謙信。
また、謙信は信玄の死をとても悲しみ、信玄が亡くなった後武田軍と戦うことは1度もなかったそうです。
こんなエピソード・名言があります。
「人の落ち目を見て攻め取るは、本意ならぬことなり。」
これは信玄の息子・勝頼が長篠の戦(織田信長との戦)で敗北を期した時、「武田の領地に攻め込もう!」と上杉の家臣が謙信に言ったときに返ってきた言葉です。
今攻めこめば確実に武田を滅ぼせる。
しかし、謙信はそれをしませんでした。
弱ってしまった相手を攻め込むという卑怯な真似は、自分の「義」に反するから。
しかしそこには信玄との友情もあったのだと私は思います。
信玄が亡くなる時、謙信に「息子を頼む」と手紙でも書いていたのかもしれませんし。
それは今となってはわかりませんが。
話を戻しますが、この証拠の品があったため信玄と謙信には友情関係があり、謙信は「義」を重んじ、信玄に塩を送り続けたというエピソードが伝わった。
「敵に塩を送る」ということわざもできた、ということなのではないかと思います。
しかし、過去の歴史というのは誰かが見ているわけではないので正確なことは誰にも分からないし、憶測でしか話もできません。
だからこそいいことを信じたいし、美談として「敵に塩を送る」という言葉が浸透したのではないかと思います。
まとめ
謙信が塩を送った真相は「信玄に塩を高く売りつけることができるビジネスチャンス」だったから。
しかし「塩止め」をされた信玄が、謙信からの塩の援助にとても感謝していたのは間違いない。
そのため、信玄と謙信の美談が後世に伝わり、「敵に塩を送る」ということわざも生まれた。
というのが今回のまとめです!
何が本当かは謎のままではありますが、歴史を知るというのは面白いですね!
今回は、上杉謙信が塩送った理由やその真相についてまとめさせていただきました!