戦国時代

最強?!上杉謙信の家臣(四天王)について!

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「戦国最強の武将は誰か!?」という議論の中で、必ず名前が挙がる越後の武将・上杉謙信。

彼が最強と言われる所以は、彼が初めて戦場に出てから亡くなるまで70回戦場に赴いたうち、明確に敗北したのがわずか2回(1回という説も)だったからです。

自らを「毘沙門天の化身」と称し、後世には「軍神」や「越後の虎(龍)」とも称された上杉謙信が、最強戦国武将になっていく傍には、彼を支える「最強の家臣」達がいたのです。

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上杉謙信の家臣-最強、上杉四天王

上杉謙信には「上杉四天王」と呼ばれた、4人の武将が仕えていました。

「上杉四天王」という言葉は、1615年に上杉家の家臣が書き表した「上杉将士書上」に記載されています。(これより以前から「上杉四天王」という言葉が使われていたのかは不明です)

「上杉将士書上」は、上杉軍役帳の中に出てくる武将達の略伝がまとめられたもので、上杉四天王の他様々な武将が出てきます。

では早速、上杉四天王と呼ばれた4人の武将達の人物像を見ていきましょう。

 

1、直江景綱(1509年頃〜1577年)

2009年の大河ドラマ「天地人」で、妻夫木聡が上杉景勝(謙信の後継者)の家臣・直江兼続を演じました。

直江兼続は、この直江景綱の後継者です。(正確には当初直江景綱の養子の直江信綱が後を継ぎますが、殺害されてしまい、後継者がいなかったため兼続が信綱の妻の船の婿養子となり、直江家を継ぎました)

→ 直江兼続の兜に「愛」ってなによ?家紋についても!

直江景綱は上杉謙信から最も信頼を寄せられていた家臣の一人で、終生側近として務めました。直江景綱は軍事よりも、どちらかと言うと内政や外交で力を発揮しました。

1556年、上杉謙信は突然出家をすると越後の国を飛び出しますが、 その騒動の中で、直江景綱は奉行職として政務を任されており、相当信頼されていたことがわかります。

一方で戦においても、派手な活躍はしていないものの、しっかりと功績を残しています。

有名な武田信玄との「川中島の戦い」で、直江景綱は「小荷駄奉行」として出陣します。この部隊の主な役割は兵糧、弾薬、陣地設営、道具などの運搬です。兵糧は軍の戦力に直結します。そのため非常に敵からは狙われやすい役割の為、この部隊を率いるにはそれなりの戦闘力が求められます。

その中で直江景綱は、武田義信(信玄の息子)の軍を敗走させています。直江景綱はまさに上杉軍の「文武両道」の武将だったんですね。

 

2、柿崎景家(1513年頃〜1574年)

徳川四天王の本多忠勝、豊臣秀吉軍勢の加藤清正、織田信長軍勢の柴田勝家…戦国時代の「猛将」と称される軍人の中に、上杉四天王の「柿崎景家」も名前を連ねています。

「上杉将士書上」には「この越後七群に和泉守(柿崎景家のコト)ほど分別のあるものがあろうかと」と、彼を賞賛する言葉が残っています。

優れた武将が揃っていた上杉軍勢の中でも、彼は常に戦では先陣を切る、勇猛果敢を体現したような武将でした。敵の中にはその名前を聞いただけで、逃げ出してしまうこともあったとの事。

1561年の川中島の戦い(第四次)でも、彼は先鋒を務め、武田信玄の本陣を攻め、武田軍を壊滅寸前に追い込みました。

→ 川中島の戦いの場所・戦の結果・勝者は?一騎打ちは本当にあったの!?

柿崎景家は戦いの場においてだけでなく、国政や外交面でも活躍しました。伊達家との養子縁組の交渉役を務めたり、北条家との同盟においても上杉家の代表を務めました。

また上杉謙信が若い時に敵将の姫に恋をした時も、柿崎景家は謙信を説得し関係を絶たせました。(これがきっかけで上杉謙信は生涯妻を娶りませんでした)

→ 上杉謙信に女性説!?その理由と真相について

上杉家に忠義を尽くした柿崎景家でしたが・・・最期は織田信長に内通していると噂が流れ、それを信じが謙信に死罪にされるという最期でした。

しかし、彼が死罪にされた1575年はまだ上杉・織田両家が交戦状態にはありませんでした。また絶対的に信頼していたこれほどの家臣を、謙信ほどの武将が、噂だけで死罪にするでしょうか?

なかなか多くの疑問が残る最期です。

 

3、宇佐美定満(宇佐美定行)(1489〜1564)

黒田官兵衛、竹中半兵衛、山本勘助…戦国時代には「軍師」として名高い武将も数多く活躍しました。宇佐美定満も上杉家の軍師としてのポジションで活躍をした人物です。

(*江戸時代に軍学者の宇佐美定祐が、先祖の宇佐美定満が越後流軍学を生み出し、上杉謙信に軍師として仕えたと書き記しておりますが、事実か不明です。)

彼の活躍でまず名高いのは、1561年の小田原城攻めにおいて早朝の撤退を進言したり、第四次川中島の戦いにおいて、武田軍の軍師・山本勘助が編み出した「啄木鳥(キツツキ)戦法」を見破った張本人と言われています。

しかし、1561年の時点で宇佐美定満は70歳を超えていました。その為すでに戦の最前線からは離れていたという説もあります。諸説ありすぎて謎めいた武将ですが、彼は最期まで謎めいたエピソードを残しています。

上杉謙信は元々越後長尾家の生まれです。長尾家にも本流と傍流があり、謙信は本流の越後長尾家の生まれですが、上杉家の家督を次ぐ際に傍流の上田長尾家との間に家督争いが勃発します。

家督を争ったのが、上田長尾家に生まれた長尾政景ですが、結局謙信が家督を継ぎ、長尾政景は謙信に忠誠を尽くしました。

1564年、宇佐美定満はこの長尾政景と湖に船を浮かべ酒盛りをしている最中、二人して溺死するのです。お酒に酔いすぎた説と、政景が謙信に謀反を起こそうとしているのを察し我が身を犠牲にして邪魔者を排除した説が残っています。

 

4、甘粕景持(?〜1604)

さて、先述した大河ドラマ「天地人」では、子供時代の上杉景勝と与六(直江兼続)が可愛らしい!と話題になりました。

その後は主君と家臣の間柄になりますが、やはり戦国大名の家臣は代々お仕えしてきたケースが一般的かと思います。

しかしこの甘粕景持は、甲斐と信濃の境の山奥に住んでいたところ、謙信にスカウトされて家臣になったという逸話が残っています。

生まれた年も出自も、資料が統一されていないため一切不明です。

景持が記録に残る目覚ましい活躍をしたのが、第四次川中島の合戦でした。彼は殿(しんがり)を務め激戦を繰り返しました。

あまりの強さから上杉謙信自身が殿を務めていると、敵の武田軍は勘違いをしたほどだったとも。この時の戦いぶりは、甲斐武田氏の軍記物『甲陽軍艦』でも賞賛されているほどです。

謙信没後は、後継の上杉景勝に仕えます。上杉景勝の時代に、上杉家は会津若松に移封(領地が変わること)、関ヶ原の戦いでは西軍についた事から大きく減封されて、山形県の米沢へ移封となります。

甘粕景持は最後まで上杉家に付き従い、米沢で最期を迎えました。

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上杉謙信の家臣について〜最強・越後兵〜

戦場で無類の強さを誇った上杉軍。

それは謙信の教養や兵学で身につけた戦術と指揮、優れた家臣達の功労のおかげでもありましたが、忘れてはいけないのが槍兵他の「家臣」である「越後兵」の存在です。

戦といえば騎馬隊などを想像しがちですが、軍隊の主力の基本は戦場を駆け回る槍兵達でした。

一般的に地形、気候の厳しい地方の兵士は、忍耐力もあり身体も丈夫でした

特に米どころの越後の田んぼは深く泥々した田んぼで、当時は胸のあたりまで浸かりながらの農作業をしていました。従い越後兵は非常に足腰が強かったと考えられます。

そして越後は地方豪族の力が強く、家督争いなど絶えず小規模な争いが起こっていたため、農民達が戦に慣れていたと思われます。

 

 

まとめ

さて、ここまで戦国時代最強武将・上杉謙信の「四天王」と呼ばれた家臣達と、その功績を辿ってきました。

[aside type="boader"] 

  • 最も信頼された文武両道の直江景綱
  • その名を聞いただけで恐れられた猛将、柿崎景家
  • 武田軍の軍師を攻略した軍師、宇佐美定満
  • 最後まで上杉家に仕えた、甘粕景持
  • そして最強・越後兵達

[/aside]

「敵に塩を送る」ほど義に篤かった上杉謙信。戦も己の利益は追求せず、常に大義名分を重視した出兵でした。歴史に「もしも」はありませんが、謙信がもし領土拡大など利益追求のためになりふり構わず戦っていたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。

優れたリーダーの周りには、優れた「人財」が集まる。まさにその理論を体現した彼は、小説、ドラマ、そしてゲーム上でも多くの人に愛されています。

戦国時代の武将の生き方から、現代に生きる私達もまだまだ多くのことが学べそうですね。

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