永遠のライバル同士であったとされる上杉謙信と武田信玄。
川中島の戦いでは5回もの熱戦を繰り広げました。
歴史に詳しくない方でも、この2人がセットで取り上げられることが多いのはなんとなくご存知ではないでしょうか?
しかし、そもそもなぜ2人は戦わなければならなかったでしょうか?
2人はどんな関係を築いていたのでしょうか?
2人の知られざる歴史を紐解き、その関係について歴史マニアの私が解説していきたいと思います!
謙信と信玄はどんな人生を送ったのか?
2人の関係を紐解く前に、それぞれの生涯について振り返ってみたいと思います。
上杉謙信の生涯は?
上杉謙信は越後守護代・長尾為景の4男として産まれます。
父から疎まれた謙信は、林泉寺というお寺に預けられ、そこで兵学に興味を持ち、戦国武将としての基礎を学びます。
時が経ち父・為景は隠居し、兄の晴景が長尾家を継ぎますがなかなか家臣たちをまとめられません。
謙信は兄の計らいで還俗し、15歳で元服し初陣を飾り、戦いに次々と勝利していきます。
武将としての才覚を認められた謙信はわずか19歳で長尾家の家督を継ぎます。
その後戦いにて関東管領・上杉憲政を助け、上杉家の家督を継ぐこととなるのです。
これが上杉謙信の始まりです!
謙信は越後統一を果たし、その中で信玄とも熱戦を繰り広げます。
「義」を重んじる素晴らしい武将であった、と世に伝えられています。
→ 上杉謙信の性格は?最強だったと言われる理由やエピソードも!
武田信玄の生涯は?
信玄は甲斐守護の武田信虎の次男として誕生しました。
信玄には兄がいましたが、幼い頃に死去してしまい、これによって信虎の後継者になりました。
父の信虎は甲斐の統一に成功した優れた武将でしたが、周辺の諸大名との間に多くの抗争を抱えており、その戦火は信玄の代にも継承されていきました。
信玄は15歳で元服し、この時に従五位下・大膳大夫(だいぜんだいぶ)という官職に叙任されました。
信玄は元服した年に初陣を飾り、信濃(長野県)佐久郡への攻撃を行っています。
この頃に父・信虎は信濃への侵攻を盛んに行うようになっており、この方針は信玄にも受け継がれていきました。
しかし一方で、信玄と信虎の間には確執が発生しており、信玄は父の追放を計画します。
信虎は勇猛な武将でしたが、暴慢なところがあり、家臣を何人も手討ちにしたり、盛んに外征を行って領民たちに大きな負担を課していたことから、甲斐における支持を失いつつありました。
また、信玄の弟・信繁が生まれた後に寵愛がそちらに移っており、信玄との関係が悪化していた、とも言われています。
こうした背景があったことから、信玄は家臣たちと結託して信虎を国外追放にしてしまったというわけです。
こうして信玄は甲斐一国の領主となり、武田氏を主導して繁栄に導いて行くことになります。
この信虎追放の措置は、領民たちから歓迎されたと伝わっています。
謙信と信玄はなぜ戦わなければならなかったのか?
永遠のライバル同士であったとされる上杉謙信と武田信玄。
2人の有名な戦いの歴史「川中島の戦い」ですが、この戦いの理由は何だったのでしょうか?
この戦いの目的は信濃(長野)の支配権を得るということ。
甲斐(山梨)をおさめた信玄は、信濃へと勢力拡大を図ります。
この土地の豪族・村上義清と高梨政頼は謙信を頼り、落ち延びてきます。
この2人に領地を返すという大義名分を掲げ、謙信は戦いに出陣するのです。
というのも、謙信も将軍の住む京都に近い信濃を得ることができれば、天下統一に向け一歩近づいたことになります。
そのため戦いに勝ち、2人の領地以外のところを自分の領地にしたいと思っていました。
こうして信玄と謙信の戦いの火ぶたは切って落とされたのです。
川中島の戦いスタート!
1回目の川中島の戦いでは両者にらみ合いだけで、大きな戦闘はなかったそうです。
2回目は謙信が京に上洛している間に信玄が川中島に侵攻。
それを知った謙信は急いで戻り、戦いを開始。しかし戦いはなかなか終結せず、最後は川中島の領地を元の武将たちに返すという条件を謙信が提示し、それを信玄が飲む形で戦いは終わった。
3回目では謙信が突然高野山に行って出家する!と言って寺にこもった隙を狙い、武田軍が侵攻。やることが本当に汚い信玄ですが、戦後時代では当たり前の行為なのです…
和睦を裏切った信玄を攻めるため謙信は寺から戻り川中島に向かいますが、結局戦いにはならなかったそうな。
4回目は信玄が川中島に勝手にお城を築いてしまいます。この時は両者激しい戦いを繰り広げます。最終的には上杉軍が越後に撤退しますが、両者ともボロボロの戦いだったようです。
最後となる5回目も結局決着はつきませんでした。
長かったこの戦い最終的には信玄の死によって引き分けで終わるのですが、戦いが終わった後の川中島は信玄がおさめることになったそうなので、信玄に軍配が上がったといってもいいかもしれません。
幾度の熱戦を繰り広げた謙信と信玄でした。
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え??謙信と信玄は本当は仲が良かった?
信玄はとても野心家で、己の勢力拡大のためには父を追放したり弟にも容赦なく刃を向けたりしていました。同盟を破ることもしょっちゅう。
しかし、その戦闘スタイルと百戦錬磨の強さで武田ファンが多いのは事実。とても人気の高いカッコいい武将です。
一方の謙信はTHE優等生。
敵に攻められて困っている者を幾度も助け、戦に出て勝利。
家臣が謀反を起こしても見事に製剤し、味方につける。
その人間性は高く評価され、当時の将軍足利家とも良好な関係を築いていました。
そんな正反対の性格であった2人ですが、その関係についてはいくつか説があるので、それぞれ解説していきたいと思います!
謙信は信玄が大嫌いだった説
これは、信玄が行った父・信虎の追放や、謙信配下の家臣をあおって反乱を起こさせたりするなどの汚いやり方が謙信は気に食わなかったからです。
この時代家族をも裏切るのは、生き延びるためにはしょうがなくむしろ当たり前のことだったように思えますが、領地拡大のためなら容赦なく人を裏切る信玄を、「義」を重んじる性格の謙信としてはとても受け入れがたかったんでしょうね。
川中島の戦いでも信玄は幾度となく、謙信を裏切っていますし、さすがの謙信も堪忍袋の緒が切れてもおかしくなかったでしょう。
2人の関係はとてもよかった説
謙信、信玄はともにお互いの強さを認め合っていました。
何度も戦いを重ねたことによって、永遠のライバルは素晴らしい友情へと変わっていったのです。
もちろんそれを裏付ける証拠もあります。
「敵に塩を送る」ということわざがあるのを知っていますか?
これは信玄が今川氏との同盟を破った際、経済政策として北条から塩の供給を止められてしまい、困惑していた信玄に謙信が塩を送ったという話から「敵に塩を送る」ということわざができたと言われています。
謙信は「義」を重んじた武将だったので、この話は本当であった可能性が高いです。
→ 【え?美談じゃない!?】上杉謙信が塩を送った理由や真相とは?!
また、信玄は息子・勝頼にこのような遺言を残しています。
「勝頼は謙信と和睦するようにせよ。謙信は男らしい武将だから、勝頼のようなまだ若い男につらく当たるようなことはしない。そして、和睦が成立したのちもへりくだっていれば、約束を破ることもしないはずだ。
大人げなかったから謙信とは和睦できずに戦い続けてしまい、一言勝頼のことを頼むと言えなかった。しかし勝頼は必ず謙信に頭を下げ、和議を結ぶようにしなさい。謙信はそうするに足りる男だから」
最後に頼れるのは謙信だったのでしょう。謙信も信玄の死を悲しんだと言います。
信玄の死後、謙信は一度も武田を攻めに行かなかったそうです。
永遠のライバル関係だった信玄と謙信は、素晴らしい友情関係で結ばれていたのです。
時代が違っていたら、もっと友情は育まれていたかもしれませんね。
ちょっと残念です。
まとめ
謙信と信玄はまったく正反対の性格だったが、数多くの戦いの仲で友情を育み、良好な人間関係を築いていた。
というのが今回のまとめです!
謙信と信玄は最終的には仲が良かったんですね。
この時代にライバルと言える存在がいるなんてすごい事だと思います。
その事は、こうして後世に伝えられているわけですから2人は本当に素敵な武将だったんですね。
今回は上杉謙信と武田信玄の関係について、解説させていただきました!