「やまとは国のまほろば」という言葉が、古事記に載っています。
日本神話に出てくるヤマトタケルノミコトが詠んだと言われる歌の冒頭です。
「やまとは国で一番美しいところだ」というような意味なんだそうです。
さて、この「やまと」。教科書や歴史の本を読んでいると、その本によってそれぞれに、「大和政権・大和朝廷・ヤマト王権」と三つの「やまと」が出てくるのですが、いったいどれが何なのか?
そんなの、どれも一緒でしょ。だって本に書いてあることはだいたい同じなんだから。
と思ったら、大間違い。似ているからといって、まったく同じではなかったんです。
その違いと成り立ちを簡単にまとめてみました!
三つの言葉の意味
まずは、「王権」「朝廷」「政権」の意味を調べてみました。
「王権」=国王の権力
「朝廷」=天子が国の政治を執る場所
「政権」=政府を構成し、政治を行う権力(旺文社 国語辞典より)
辞書によるとそれぞれの意味は違うんですね。
やはり、使っている言葉が違うということは意味も違うということなんですね。
「権」がつくのは「権力」を呼ぶときの呼称だから。
〇「王権」は王制における権力範囲。
〇「政権」はひとつのまとまった政治機関の権力範囲。
古墳時代には各地に王がたつ王制のでしたので、その中で大きな権力をほこったのが「ヤマト王権」。
「政権」はその「ヤマト」が周辺の国を統治してできた政治基盤がもつ権力なのでしょう。
このことについては後でくわしく書いていこうと思います。
〇「朝廷」というのは、Wikipediaによると次のような意味だそうです。
『「朝」は草原に日が昇る様を表す。日の出とともに臣下が天子に拝謁し執政していたことから、天子の政務そのものをさすようになった。』
『「廷」は大きな壇上に人が立つ様を表し、これが臣下が天子に拝謁する別格の場所という意味になった。』
日が昇ると同時に、大きな壇上で臣下を前に執務を始めた場所だから「朝廷」と呼んだ。
わかりやすいネーミングだったんですね。
次に、本命のヤマト王権・大和朝廷・大和政権の違いについて見ていきたいと思います。
大和政権とは
「大和政権」とは「大和における政府であり、その政府が持つ権力範囲」です。
大和政権は4世紀から7世紀までの大和地方にあった政府です。
大和からどの程度までが権力を行使できる範囲だったかというと、これは時代によって広がっていったため、一言では言えないようです。
最初は大和と畿内(今の奈良全域と、京都・大阪・兵庫の一部)の豪族が作る連合国家でした。
この後、覇権を広げていき、4世紀中ごろには、西日本を統一しています。
東日本まで勢力が広がったのは8世紀ころのようです。
かなり長い間、大和政権は地方豪族をまとめることが出来ていたようですね。
きっと強い兵力と、的確な政治力のある政府だったのでしょう。
大和朝廷とは
「大和朝廷」とは「大和の国で大和の天子が政治を執る場所」です。
「大和政権」が広範囲を指すため、実際の時代の変遷をわかりやすく言うための別呼称として、「大和朝廷」と使われるのが慣例となっているようです。
しかし、歴史学者の間では、大和が覇権を広げていた古墳時代には、まだ「朝廷」と言えるような政治体系ではなかったという意見もあるそうです。
そのため、代わりに使われるようになった言葉が「ヤマト王権」でした。
ヤマト王権とは
「ヤマト王権」とは「ヤマトの王が持つ権力」、その権力が及ぶ範囲のことです。
ヤマトは中国へ使節を送る際には「倭」と呼ばれており、「オオキミ」と呼ばれる首長が中心となっていると説明していたようです。
各地でばらばらに乱立していた国を一つにまとめて、「ヤマト」に併合することに成功した王権です。
後の日本の神話の書の『古事記』(こじき)や、後の歴史書の『日本書紀』(にほんしょき)などから、「ワカタケル」というオオキミがいたことがわかっていて、このワカタケルの名が書いてある鉄剣が、埼玉県の稲荷山古墳からも、熊本県の江田船山古墳からも出土していると言いますから、かなり広範囲を治めていたようですね。
でも、さらに気になることが一つ出てきました。調べていると、「大和政権」「大和朝廷」は漢字なのですが、「ヤマト王権」はカタカナなのです。
「大和」と「ヤマト」ってなんで漢字とカタカナがあるの?
その点についても調べてみましょう。
ヤマトと大和の違いってなに?
『大和・倭=①旧国名の一つ。今の奈良県。和州。②「日本国」の古称』(旺文社 国語辞典より)
ということなのですが、国名として使われていた漢字は『大和』です。
では、残った『倭(わ)』がカタカナで示されるヤマトなのでしょうか?
『倭』ってなに?
「倭」という文字が使われているのは主に中国の歴史書です。
「漢委奴国王」という言葉を聞いたことがあるかもしれません。
これは、中国の戦国時代、日本から中国の魏へ渡った使節を表記したものです。
『魏志倭人伝』という書物に記載されています。
「中国の中の倭という地域の奴国の王である」と読むいう解釈がなされていて、使節を送ったものが倭の王であると、大国である中国に認められた証しとして金印が贈られたのです。
ところが、この印をさずかったのが誰で、その国はどこにあったのかは、今もってわかっていないのだそうです。
歴史にはまだまだたくさんの謎が残っていますね。
その謎に少しでも近づくべく、さらに歴史を見てみました。
『倭』が『大和』に変わったのはいつ?
中国の歴史書に「倭」という言葉が古墳時代の末ごろで、それに続く飛鳥時代には「大倭」という字が使われていました。
「大倭」と同時代に使われていた、西日本を統一したころの日本国内で使われていた国名が「大和」であり、さらに東日本まで勢力を伸ばしたころには畿内地方だけでなく日本のかなり広い地域全体を「大和」と呼ぶようになりました。
中国での「大倭」が日本での「大和」。どちらも「大」に「わ」と読める漢字がつきます。
もしかしたら、日本では「大倭」も「ヤマト」と読んでいて、政権が西から東まで広く広まったときに漢字表記も変わったのかもしれませんね。
その後、7世紀には「日本」と書いて「ヤマト」と呼んだのではないかという説があるそうです。
「にっぽん」と呼ぶようになったのは、ずいぶんと後のことのようです。
もしかしたら中国語読みが逆輸入された若い呼び名だったのかもしれませんね。
大和政権・大和朝廷・ヤマト王権の違い まとめ
・三つの違いは「政権」「朝廷」「王権」の意味の違いによって区別されている、権力や勢力の範囲です。
・「大和」と「ヤマト」の違いは、「大和」は地理的な地名としての呼称、「ヤマト」は「倭」も「大倭」も「大和」も「日本」にも使われる共通の読み方。
もともと日本には文字がなく、「倭」が最初に歴史に現れるのはいつか、中国の文献に頼るしかありません。
その後、漢字を使って日本語の音をあらわす「万葉仮名」という文字が出来て、国名をどう呼んでいたのかが克明にわかるようになりました。
そしてその万葉仮名で書かれた「やまとは国のまほろば」から始まる歌があるように、日本独自の文化が花開いていったのでしょうね。
ヤマトは日本になって、徐々に統治領域を広げ、今の日本地図のような広さになっていくのでした。
三つの違いを知ってもう一度歴史の本を読むと、理解が深まるのではないかというような気がします。
近々、また同じ本も読み直してみようと思いました。