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弥生時代の暮らしはどんなだった?その特徴についても!

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弥生時代と聞いて、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか??

古代の世界って、謎のままのことが多い分、人々の暮らしが少しでも垣間見えるととても好奇心が刺激されますよね?

例えば古代エジプトではすでにパンが食べられていた、化粧をしていた…かつてのトルコ、ヒッタイト帝国ではワインが飲まれていたなど人々の暮らしも出土した遺跡から明らかになっています。

では日本の弥生時代の暮らしは、各地で出土した遺跡や物から一体どんなことがわかっているのでしょうか?

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住居・建築について

弥生時代の住居・建築といえば、「ネズミ返し」が取り付けられた「高床式」の建築を学校では勉強しましたよね。

高床式の建築は、主に収穫した穀物の保管する倉庫として使用されていました。

しかし住居としては、縄文時代から引き続き竪穴式住居も使用されていました。

また、弥生時代の遺跡として有名な佐賀県の吉野ヶ里遺跡では、住居、倉庫の他に祭祀的な役割を備えた大規模な建物も、地域の中心的な集落には存在していました。

鳥取県の角田遺跡から出土した土器には、太陽、船に乗ったシャーマン、鹿、銅鐸のようなものがつりさげられた木の他に、高い柱を持つ物見櫓のような建物と、高さのある倉のような建物が描かれています。

奈良県の唐古・鍵遺跡から出土した土器にも、重層の建物が描かれています。

こうした土器に描かれた絵から、弥生時代には高さのある建物が神聖であるという観念が存在したと言われています。

 

 

食事について

弥生時代には稲の栽培が本格的に始まり、米を始めとする穀物を主要な食料とする食生活が始まった、と学校では勉強してきました。

当時米の他には麦、アワ、ヒエ、小豆など栽培されていたことが、各遺跡から出土する炭化穀物により明らかになっています。

邪馬台国の女王・卑弥呼の記述が残っている「魏志倭人伝」にも当時の人々の暮らしが描かれていました。

倭人(当時の日本人)の食生活について「倭の地は温かく、夏も冬も生野菜を食べる」「飲食は高坏を使い、手づかみで食べる」「人々は生来酒が好き」という記述が残っています。

しかし「人々は手づかみで食事をした」との記述は確かに残っていますが、鳥取県の青谷上寺地遺跡からは木製のスプーンのようなものも出土しています。

そのため弥生時代のお米は、雑穀と雑炊のようにして食べられ、一部地域ではスプーンなどの道具も使って食事がされていたと想像できます。

一方で各地の遺跡から甑(こしき)も出土しており、弥生時代には「炊く」とは別に「蒸す」という調理方法もあったことがわかりました。 (手でつかめる…!)

お米を蒸したとするならば、魏志倭人伝の記述と合わせると、日常はお米と雑穀を混ぜて雑炊のようにして食べ、祭りなどの時はお米を蒸して、高坏に盛って食べていたと推察できます。

また、縄文時代から継続して、狩猟・漁労によるシカ、イノシシ、カキ、アワビ、マグロなどの野生動物や、キジ、カモなどの野鳥類も食料となっていた事が貝塚から出土した骨から確認が出来ています。

瀬戸内海の方の遺跡では、製塩に使用された土器なども発掘されており、弥生時代には塩をつくり調味料としていたという事がわかりました。

想像しているよりも、結構豪華な食事をとっていたんですね…

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衣服・服飾品について

弥生時代の人々はいったいどんな服装をして過ごしていたのでしょうか?おしゃれはしていたのでしょうか??

先述した「魏志倭人伝」には、当時のファッションについてこのように記載しています。

「男子は成人も子供も皆刺青をしている。男子は冠を被らず木綿の布で頭を巻き、衣は幅広い布をただ結び重ねるだけで、縫う事はない。婦人は髪を結ったりおさげにし、衣は単衣のようにし、真ん中に穴を開けて頭を通して着るだけである。人々は裸足である」

この記述から人々の衣服は、布の真ん中に穴をあけて頭を通す「貫頭衣」であったと考えられています。

この形態の衣服は弥生文化との親近性が指摘されている東南アジアの稲作民族が現在も日常着にしています。

ただ、各地から出土している織機の大きさから考えて、弥生時代の布の幅は30㎝前後だった為、上述した貫頭衣を製作するのは難しいのではないかという意見も。

その為、この時代人々は2枚の布を併せて、頭と両脇を空けて、綴り合わせた衣服を着用していたと考えられます。

こちらのファッションは飽くまで一般庶民の日常着。

既に身分の差もあった為、身分が上の人の服装や、祭祀の日などの特別な日の服装は異なるものでした。

こうした想像に具体的なイメージをもたらしてくれたのが、吉野ケ里遺跡での甕棺墓から見つかった絹織物です。

この甕棺墓は身分の高い人を葬ったものと考えられており、布には袖を縫った後まで確認できました。

これによって、富裕層は一般庶民が着用していた貫頭衣とは異なり、袖付きの衣服を着用していたという事が明らかとなりました。

特に吉野ケ里遺跡からは、織り目が細かく、繊細で透けるような「透目絹」という絹が出土しています。

この「透目絹」は中国の華中方面の古代絹に多く、中国との交流があったことが窺えます。

また絹布の中には貝紫や日本茜で染色されたものもありました。

「紫色」は貴重な染料で、身分の高い人しか着用できない色でした。

古代の貝で染められた布なんて、見てみたいですね…!!

 

 

まとめ

さて、ここまで弥生時代の暮らしについて、住居、食事、服装を中心に調べてきました。

  • 住居は縄文時代に引き続き竪穴式住居も利用。
  • 穀物を保管する倉庫には、高床式倉庫を使用した。
  • 稲作始まったとはいえ、日常の食生活は米と雑穀をあわせた雑炊のようなものだったと推察される。塩などの調味料も使用していた。
  • スプーンなどの道具を使って食事をしていた地域もある。
  • 縄文時代に引き続き狩猟や採集も行っていた。
  • 一般人と富裕層の服装は違った。一般庶民は布を合せた簡単なものだが、富裕層の服装は袖付きであった。
  • 中国で作られた絹と同じ織り方の絹も出土している。紫や茜色で染められている物もあった。

古代の生活は謎が多く、出土してきたものから想像力を働かせる必要がありました。

それはとても大変な作業でありつつも、少しずつ出土されてきたものをパズルのように組み合わせて、イメージが膨らんでいくのもきっとワクワクしますよね。

歴史の教科書の中での記述は確かに短いですが、人類の歴史の中で縄文時代と弥生時代が占める割合は大きいです。

色とりどりの絹織物を着た人々や、多くの農民たちが、苦労して作った金色に輝く稲の収穫を祝う姿を想像すると、この時代の人々の努力に尊敬の気持ちしかないですね。

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