江戸時代

吉田松陰の名言・辞世の句!向上心・行動力・めげない気持ちなど、現代でも役立つ名言がたくさん!

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幕末の長州に激烈な思想家がいました。吉田松陰です。彼は、現代と比べたら殆ど自由がないはずの江戸時代にいながら、奔放かつ壮絶な生き様を示し、後に明治維新で活躍する長州の志士たちに強烈な影響を与えました。

松陰の人生を追いながら、彼が残した名言・辞世の句を一緒に見ていきましょう。

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吉田松陰の名言!

松陰の生い立ちに関する名言

【名言1】学問の上で大いに忌むべきは、したり止めたりである。したり止めたりであれば、ついに成就することはない。

【名言2】「悔いるよりも今日直ちに決意して、仕事を始め技術をためすべきである。何も着手に年齢の早い晩いは問題にならない。」

長州藩士・杉百合之助の次男として生まれ、子ども時代から畑仕事の合間など寸暇を惜しんで勉強をしました。叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、兵学も修得。11歳のとき、藩主・毛利慶親(もうりよしちか)からその才能を認められました。

13歳のときに長州軍を率い西洋艦隊撃滅演習を実施。15歳で、江戸時代の兵学の双璧と言われた山鹿流と長沼流を修めました。

アヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことから、西洋兵学を学ぶため1850年に九州や江戸で遊学しました。松陰の強い向学心と行動力が分かる名言です。

 

東北旅行の名言

【名言3】だいたいにおいて世間の毀誉(悪口と称賛)というものは、あてにならぬものである。

万事順調に見えた松陰ですが、1852年に宮部鼎蔵らと東北旅行を計画した辺りから、狂いが生じます。出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩してしまったのです。

この東北遊学では、水戸で会沢正志斎と面会、会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。秋田では相馬大作事件の現場を訪ね、津軽では津軽海峡を通行する外国船を見学しようとしました。

当然のことながら江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分。でも、こんなことは全然気にしないだろうことが分かる名言。

 

黒船に乗船したときの名言

【名言4】決心して断行すれば、何ものもそれを妨げることはできない。大事なことを思い切って行おうとすれば、まずできるかできないかということを忘れなさい。

1854年、ペリーが日米和親条約締結の為に来航した際、金子重之輔と二人で、海岸につないであった漁民の小舟を盗んで下田港内の小島から旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船。しかし渡米を拒否され小船も流されたため、下田奉行所に自首。伝馬町牢屋敷に投獄され、結局は国許蟄居となりました。

ただ無鉄砲なだけの暴挙としか見えないのですが、この時のことを言っているように聞こえる名言。

 

松下村塾を引き継ぐときの名言

【名言5】どんな人間でも一つや二つは素晴らしい能力を持っているのである。その素晴らしいところを大切に育てていけば、一人前の人間になる。これこそが人を大切にするうえで最も大事なことだ。

1857年に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾しました。松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったと言われています。

松陰は自分を「僕」と言い、弟子とも対等な関係を保とうとしました。そんな松陰の教育者としての考え方が分かる名言。

 

間部要撃策を提言したときの名言

【名言6】道を志した者が不幸や罪になることを恐れ、将来につけを残すようなことを黙ってただ受け入れるなどは、君子の学問を学ぶ者がすることではない。

1858年、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って、松陰は激怒。長州藩重役・周布政之助(すふまさのすけ)に、間部要撃策を提言し、協力を要請します。

間部要撃策とは、老中首座・間部詮勝(まなべあきかつ)が孝明天皇への弁明の為に上洛するのをとらえて条約破棄と攘夷の実行を迫り、それが容れられなければ討ち取るという策。

これは攘夷を幕府に頼めるかどうかを確かめるものですね。テロリスト的な手法ではありますが、倒幕に進むかどうか模索している段階と言えます。

しかし、長州藩上層部には理解されず、松陰に野山獄入りの藩命がくだりました。

幕府が結んだ条約が将来必ず日本の不利益になることを見抜き、それゆえに行動したことが分かる名言。

 

伏見要駕策を計画したときの名言

【名言7】夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。

間部要撃策を断念した松陰は、今度は伏見要駕策(ふしみようがさく)を獄中で立案します。これは、参勤交代の毛利敬親を伏見で待ち受け、攘夷論者の公家・大原重徳(おおはらしげとみ)に説得してもらい、大原と共に天皇に謁見、幕府の失政を糾弾するというもの。

これは、朝廷を動かそうとしているようですね。討ち取ったりしようとしているわけではないので若干穏やかですが、それでも大変恐れ多いことです。松下村塾のほとんどの弟子たちも賛同せず頓挫しました。

それでもめげずに、夢と理想を追いかけ、計画し実行し続けるであろうことが分かるのが次の名言。

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草莽崛起論を提唱

【名言8】英雄はその目的が達成されないときには悪党や盗人とみなされるものだ。世の中の人から馬鹿にされ、虐げられたときにこそ、真の英雄かどうかがわかる。

松陰は、間部要撃策や伏見要駕策における藩の対応に不信を抱き、草莽崛起論(そうもうくっきろん)を唱えるようになります。これは、武士以外の人々、すなわち豪農・豪商・郷士などの階層や脱藩浪士を「草莽」と呼び、彼らが身分を越えて、国家を論じて変革に寄与して行くべきであると主張。

民主主義に近い考え方かもしれませんが、当時としては間違いなく危険思想なので、再度、野山獄に幽囚されています。

虐げられることで、ますます強くなっていく理由が分かる名言。

 

間部要撃策を自白した名言

【名言9】世の中には体は生きているが、心が死んでいる者がいる。反対に、体が滅んでも魂が残っている者もいる。心が死んでしまえば生きていても、仕方がない。魂が残っていれば、たとえ体が滅んでも意味がある。

1859年、安政の大獄で梅田雲浜(うめだうんぴん)が幕府に捕縛されると、松陰が萩で面会していたことなどから、松陰も江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄されました。

幕府が松陰に問いただしたのは雲浜が萩に滞在した際の会話内容などの確認でしたが、松陰は聞かれてもいないのに、間部要撃策を自ら進んで告白してしまいます。

この結果、松陰に死刑(斬首刑)が宣告され、1859年11月21日、伝馬町牢屋敷にて死刑が執行されました。

自分から処刑される道を選んだような松陰ですが、そんな彼の死生観が分かる名言。

 

辞世の句

【弟子宛】「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

これは【名言9】の「魂が残っていれば、たとえ体が滅んでも意味がある」という部分と合わせて読むと分かりやすいですね。「魂は留め置いて、お前たちに託していくぞ」という意味でしょう。遺志を継がないわけにはいかない雰囲気ではありますが。

【家族宛】「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」

松陰の教養の原点は幼い頃から学んだ四書五経でしたから、早く逝く不孝は申し訳ないという気持ちがあったことでしょう。

 

 

まとめ

松陰は幼い時から勉学に励み、若くして四書五経や当時の兵学の全てを習得した。その強い向学心と行動力が分かるのが次の名言

【名言1】学問の上で大いに忌むべきは、したり止めたりである。したり止めたりであれば、ついに成就することはない。

【名言2】「悔いるよりも今日直ちに決意して、仕事を始め技術をためすべきである。何も着手に年齢の早い晩いは問題にならない。」

 

脱藩して東北旅行に行った松陰。江戸に帰着後、処分を受ける。しかし、そんなことは全然気にしないだろうことが分かるのが次の名言

【名言3】だいたいにおいて世間の毀誉(悪口と称賛)というものは、あてにならぬものである。

 

黒船に乗り込んで渡米しようとするが失敗。そういう無茶なことをする理由が分かるのが次の名言

【名言4】決心して断行すれば、何ものもそれを妨げることはできない。大事なことを思い切って行おうとすれば、まずできるかできないかということを忘れなさい。

 

間部要撃策を藩に提言して、野山獄に入れられる。その時のことを言っているようなのが次の名言。

【名言6】道を志した者が不幸や罪になることを恐れ、将来につけを残すようなことを黙ってただ受け入れるなどは、君子の学問を学ぶ者がすることではない。

 

伏見要駕策を計画するも頓挫。それでもめげないことが分かるのが次の名言

【名言7】夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。

 

草莽崛起論を提唱して、再び野山獄に幽囚。でも、虐げられるほど強くなる松陰のメンタリティーが分かるのが次の名言。

【名言8】英雄はその目的が達成されないときには悪党や盗人とみなされるものだ。世の中の人から馬鹿にされ、虐げられたときにこそ、真の英雄かどうかがわかる。

 

安政の大獄のとばっちりを受けて伝馬町牢屋敷に投獄されるが、聞かれてもいないのに間部要撃策を自白。死刑となる。そんな松陰の死生観が分かるのが次の名言。

【名言9】世の中には体は生きているが、心が死んでいる者がいる。反対に、体が滅んでも魂が残っている者もいる。心が死んでしまえば生きていても、仕方がない。魂が残っていれば、たとえ体が滅んでも意味がある。

 

辞世の句は次の二つ。

【弟子宛】「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

【家族宛】「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」

余りにも激しい行動力で、やってることも言ってることも訳が分からないような所もありますが、命懸けの行動は迫力があります。そして、間違いなく松陰の遺志が、明治維新の時の長州藩の常識を超えた動きへとつながっていると思います。

やはり、吉田松陰がいなかったら、明治維新は起こらなかったかもしれません。

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