天下を初めて統一した豊臣秀吉ですが‥‥実は秀吉の指が6本あったと言われている伝説をご存知でしょうか。この話は伝説ではあるものの、ただの噂ではなくそれなりの根拠があるようです。
豊臣秀吉の指は6本あったの!?
豊臣秀吉の指が6本あったことを裏付ける書物や言い伝えが残っています。
- ルイスフロストによる日本史の記述
- 前田利家による回想録
まずはルイスフロストの日本史記述から見ていきましょう。
ルイス・フロイスによる記述
この伝説が起こったのは、織田信長時代です。キリスト教の布教活動のために来日していたポルトガル人の宣教師であるルイス・フロイスが編集した「日本史」に次のような記述があります。
ルイス・フロイス『日本史』豊臣秀吉編 I 第16章
「優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた。身長が低く、醜悪な容貌の持ち主だった。片手には六本の指があった。眼がとび出ており、支那人のように鬚が少なかった。極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。抜け目なき策略家であった。」
これ以降、海外では豊臣秀吉が指6本説が信じられてきました。日本では、このフロイスの史料以外に、秀吉の指6本説に触れる史料は残されていません。また、フロイスの記述には、多くの私怨が含まれているとの解釈から、否定的な意見が多く、間違った説と捉えられています。
確かに、フロイスの記述をみればお分かりになるのですが、酷い言いようであります。フロイスは秀吉にまったく好感を持っていませんでした。
とはいえ、指が6本だったと話を作っても何も意味がないように思えます。フロイスの残した安土城の記述などを読めば、彼は自分の目で見たことを執拗なまでに詳細に記しており、秀吉の6本指も、フロイスには強烈なインパクトとして映り、記録に残したものと考えらます。
前田利家による記述
そのフロイスの記述を裏付ける史料として、秀吉の旧友、前田利家が記した回想録が、近年になって見つかっています
前田利家『国祖遺言』
「大閤様は右之手おやゆひ一ツ多六御座候然時蒲生飛 生飛弾殿肥前様金森法印御三人しゆらく(聚楽)にて大納言様へ御出入ませす御居間のそは四畳半敷御かこいにて夜半迄御 咄候其時上様ほとの御人成か御若キ時六ツゆひを御きりすて候ハん事にて候ヲ左なく事ニ候信長公大こう様ヲ異名に六ツめかな とゝ御意候由御物語共候色々御物語然之事」
この前田利家の談話から読み取れるのは、秀吉の右手の親指が1本多かったということです。「上様(秀吉)ほどのお人ならば、若いときに6本目の指をお切りなればよかったのに、そうされないので信長公は“六ツめ”と異名されていた。」と語っており、この談話が本当であれば、フロイスの記述も間違っていないことになります。
生まれつき手足の指が多い人のことを「多指症」と呼ぶそうです。この病気はそこまで珍しい病気ではないようです。主にアフリカやヨーロッパに多い病気のようですが、東アジアでも1000人に1人くらいの割合で生まれるようです。
つまり、0.1%です。戦国時代の日本と人口はおよそ1200万人ほどでしたから、単純計算をすると、1万人ほどの人々は多指症であった計算になります。
ただ、戦国時代でも現代でも多指症に生まれた場合、幼児の間に切断して5本指にするのが一般的で、その意味では、秀吉のように6本指のまま大人になった例は、当時としても珍しかったのかもしれません。
なぜ6本指のままだったのか
なぜ、豊臣秀吉は、6本指のままだったのでしょうか。6本目の指を幼い頃に切り落とす習慣は、武士階級がある程度身分が高い階級の習慣だったのではないでしょうか。
豊臣秀吉は元は農民です。農民は貧しくお金がありません。そのため、指を切り落とす手術を受けるお金がなく、6本指のまま成長をしていったのではないかと考えられます。
その後に武士となったことから、武士社会では珍しい6本指の武将となったのかもしれません。成長してから切り落とすこともできたかもしれませんが、あえてきりおとさなかったのでしょう。周りから奇異な目で見られることにより、反骨精神で天下統一まで登り詰めていったのではないでしょうか。
しかし、天下統一をした後の豊臣秀吉は、肖像画を書かせる際に、右手の親指を隠す姿を書かせたり、6本指の事実を抹消しようとしていたようにも見受けられます。
肖像画をみると、確かに右手の書き方が不自然と言われれば不自然なような気もしてきます。
“猿”“禿げ鼠”とあだ名されたことが、これほどまで後世に伝わっているのに対し、利家の談話にある“六ツめ”というあだ名は、現在でもあまり知られていない。
これを逆に考えると、秀吉が“六ツめ”というあだ名を歴史の記録から削除するために、あえて、 “猿”“禿げ鼠”というあだ名が後世に伝わるように操作したと考えるのは、いきすぎでしょうか。秀吉にとって一番のコンプレックスは、卑賤の出自でも醜悪な容貌でもなく、6本指だったのではないかと推測できます。
コンプレックスは人を成長させる
作家・司馬遼太郎氏が、小学校の教科書向けに書いた文章『洪庵のたいまつ』の中で、生まれつき病弱だった緒方洪庵について次のように述べています。
司馬遼太郎:「人間は、人なみでない部分をもつということは、すばらしいことなのである。そのことが、ものを考えるばねになる。」
たしかにそのとおりで、たとえば野口英世は、1歳のときの火傷で左手の5本の指がくっついてしまい、その後13歳のときに指を切り離す手術を受けるも、生涯、左手の指は自由に動かなかった、という話は有名です。
発明王のトーマス・エジソンは生まれつきの難聴障害に苦しんだといいますし、ヘレン・ケラーにいたっては視力・聴力ともに失っています。
そうしたハンデキャップを克服して名を成した偉人というのは歴史上たくさんいて、子供向けの伝記などでは、そんな逸話が大いにクローズアップされるのが世の常です。
しかし、秀吉の「6本指説」にふれた伝記はほぼありません。近年まで邪説とされてきたこともあり、しかも6本指にまつわるエピソードや史料が少ないことを考えれば、これまでは当然だったかもしれませんが、現在では真説と考える歴史家も多く、もっとスポットを当てていいのではないでしょうか。
実は‥一つの眼球に二つの瞳があった説もある
ちなみに、秀吉にはもうひとつ、一つの眼球に二つの瞳があった(重瞳)という説もあります。もっとも、これについての信憑性はきわめて薄く、まともに論じられることはめったにありません。
重瞳については、古代中国の伝説上の聖王である舜が重瞳であったという伝承があり、日本においても重瞳は貴人の相と考えられていたらしく、おそらく秀吉のそれは、天下人となったあとの権威付けのためか、もしくは後の世に作られた伝承と考えてよさそうです。
6本指にしても重瞳にしても、事実であれ虚像であれ、そんな常人とは異なった身体的特徴の伝承が残っていること自体が、豊臣秀吉という人物の歴史上の存在感の大きさといえるでしょう。
まとめ
- フロイスが残した書物に秀吉が6本指であったと記されている
- 6本指の説は確定ではない
- 目も3つあったかもしれない
6本指が本当かどうかはどうであれ、6本指でも普通に生きて居られることが驚きです。指の神経はどうなっているのでしょうか。刀の握り方も少し違ったのかもしれませんね。
6本の指で数々の敵を打ち倒し、天下統一となった秀吉は逆に6本の指だから良かったのかもしれません。本人は嫌だったのかもしれませんが、もっと世に出していれば、6本指に憧れる人物も出てきたかもしれませんね。
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